7.夢のマイホーム

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7.夢のマイホーム

 真っ赤な夕空に波打つ雲が美しい。  竹藪がさやさやと涼しげに揺れ、新天地がよってたかって祝福してくれる――。  原口清一は念願叶ったマイホームを見上げた。  築十年の中古だろうが、三十坪だろうが、駅から二十分だろうが、電車で東京まで一時間半だろうが、庭が猫の額だろうが、今年が厄年だろうが、マイホームはマイホームだ。  五十平米のURと比べれば、倍も広い二階建てだ。 「ありがとうございました」 「お疲れさま」  引っ越し業者が帰っていく。キビキビとよく働く若者たちで気持ちよかった。さあ、あと一踏ん張り。今日のウチにできるだけ段ボールを片付けよう。 そのとき、道路を隔てた少し先の家から、ひとりの老人がこちらを見ていると気がついた。くすんだ色の袢纏(はんてん)を羽織り、白いステテコに草履。子供の頃、近所で見かけた昭和の年寄りだ。不動産屋と下見に来たときも、ああやってこちらの様子を窺っていたのを清一は思い出した。  いい機会だから挨拶をしておこう。そう思い立ったが、挨拶用のタオルやら蕎麦やらを用意していない。いや、タオルやら蕎麦やらは両隣と向かいの三軒にしておいて、あの老人の家は手ぶらで済ませよう――。  清一は小走りで老人に駆け寄った。老人は一瞬逃げようとしたが、呼び止められて振り向いた。 「こんにちは。今日、あの家に引っ越してきた原口です。よろしくお願いします」  小さな門に目を走らせたが表札はなかった。 「妻と五歳の息子がいます。三人暮らしです」  老人は口を半開きにして、小刻みに何度か頷いた。頬はこけ、木の杖をついている。健康そうには見えない。ひょっとしたら、痴呆老人だろうか。 「あのう、失礼ですが……」 「ん?」 「宜しかったら、お名前を」 「ああ……」  まさか、名前を忘れたか。 「かじや……」 「え?」 「かじやま」 「かじやま、さん?」  うんうん、と老人は頷いた。 「かじやま、何さん?」  えっ、と老人は清一の目を見た。警戒の色を帯びている。これは、ボケているわけじゃない。清一はそう確信した。 「そら、どうでもいいべ」 「はあ……」  老人は原田を残して家に入った。なんだか気まずい挨拶になってしまった。  間もなく東京ガスが開栓に来て、新しい生活が始まった。夕食は国道沿いの回転寿司でテイクアウトの大皿を買い、ダイニングで妻の美奈と乾杯した。マイホームを手に入れ、ようやく、妻に対して面目が立った。  二階には二部屋ある。ひとつが夫婦の寝室で、もうひとつが長男・佳人(よしと)の子供部屋だ。これまで川の字に布団を敷いていたが、今日から佳人はひとりでベッドに寝る約束だ。本当に大丈夫か心配したが、引っ越しで疲れたのだろう。八時過ぎにはリビングで寝てしまい、そのまま二階へ抱いていっても目を覚まさなかった。  夫婦のベッドは、シングルサイズのマットをふたつ並べるタイプを選んだ。思えば、ふたりだけで寝るのは五年ぶりだ。久しぶりに美奈の体を引き寄せると、意外なほど大胆に妻は振る舞った。夫婦は裸のまま互いに背を向け眠った。  清一は尿意に起こされた。枕元の時計を見ると、ちょうど深夜零時だ。裸の美奈は毛布をたぐり寄せて眠っている。トイレは一階の一か所だけだ。ベッドの下に脱ぎ捨てたパンツを穿き、寝巻きに袖を通す。部屋を出て階段の明かりをすけると、階下から金属をひっかくような音が聞こえた。  階段を下りるについて音は大きくなっていく。どうやらキッチンから聞こえてくるようだ。 音の確認か、トイレが先か……。  まさか、引っ越し早々泥棒が入ったわけでもあるまい。そう思いつつ、清一はトイレの前を通り過ぎ、キッチンの外に立った。人の気配はない。手を伸ばし、明かりのスイッチを入れる。同時に、音は止んだ。  引っ越しの披露で幻聴でも聞こえたのだろうか。耳をそばだてて台所を見回すが、やはり誰もいない。清一は明かりを消し、トイレに入った。洋式便器の便座を下げて小便をする。  立ったまま放尿するな、というのが、新居に越して決めたルールだ。大量に放尿し、すっきりした気分で階段を上がろうとしたそのとき、再び金属をひっかくような音が聞こえた。素早く台所に入り、明かりをつける。  げっ!  流し台のシンクをよじ登ってきた二十センチはあろうかという巨大なムカデが床に落ちた。ムカデはばつが悪そうに頭を上げ、清一を見たまま動かない。  これはどう対処すべきか――。  引っ越し荷物を片付けたとき、ホウキを使った。確か、階段の下の物入れにしまった筈だ。清一はゆっくりとあとずさりし、ホウキを取りに引き返した。記憶通り、ホウキはそこにあり、清一はその柄をつかんでキッチンに戻った。  なんなんだ!  何匹ものムカデが床から流し台へと這い上がっている。素足に何か触れた。それもまたムカデだ。  こんなにいたのか!  まるで清一に見つかったので慌てて退散するように、ムカデたちは我先にと流し台を這い上がり、シンクへ落ち、排水口へ滑り込んでいく。いったいどれだけの数がいたのだろう。  今日ここに人が引っ越してきて、何か餌になりそうな匂いでもしたというのか。それとも、ムカデたちにとってこの家そのものが根城であって、夜になって戻ってきただけなのだろうか。  最後の一匹とおぼしきムカデが排水口に逃げ帰るのを見極め、清一は大量の水を流した。十分以上も流し続け、これ以上やると水道代に響くと心配になったところで排水口を銀のボールで塞ぎ、なみなみと水を入れた。  翌朝、洋一はもう一日年休を取った。ちょっとした家のトラブルだと言い訳したが、嘘ではない。この家を買った不動産屋は駅前にある。徒歩二十分の距離を洋一は歩いた。駅行きのバス停まで十五分かかるのだから、直接、駅に歩いた方がよい。駅前の自転車置き場を借りたら、すぐに通勤用の自転車を買うつもりだった。  不動産屋は個人経営で、社長はロレックスの時計やら金のブレスレットやらをギラギラさせてはいるが、顔つきはどことなく情けなく、シャツのボタンがはち切れそうな太鼓腹も悪人とは思えない。  清一がドアを開けると、社長はすぐに立ち上がり、事務員の女性にお茶を入れさせた。「どうですか、ご新居は」  これから受けるクレームなどまるで想像していなかった顔つきだ。しかし、だからといってムカデの大軍をごめんだ。話を聞いた社長はすぐに知り合いの害虫駆除業者に連絡を入れた。  一時間後にはその業者がやってきて、社長も立ち会い、排水口に大量の殺虫剤が流し込まれた。トイレ、風呂場、洗面所と下水に通じる全ての「口」にも同じ薬剤が投入された。全ての作業が終わり、社長が深々と頭を下げて帰るの様子を、例の老人――かじやま、と名乗る老人が見ていた。  ともかく、これで安心だ。引っ越して二日目の夜も、夫婦円満な夜を過ごし、再び清一は尿意に起こされる。枕元の時計を見ると、ちょうど深夜零時だ。裸の美奈は毛布をたぐり寄せて眠っている。  トイレは一階の一か所だけだ。ベッドの下に脱ぎ捨てたパンツを穿き、寝巻きに袖を通す。部屋を出て階段の明かりをすけると、階下からコトン、と何かが響く音が聞こえた。前夜のムカデとは明らかに異なっている。そっと階段を下りていくと、ちょうど半分くらいで再び同じ音が聞こえた。  コトン……。  この響き方は、おそらく風呂場だ。この家はユニット式の浴室ではない。昔ながらのタイルを敷いた床にプラスチックのタライを置き、それが狭い浴室で共鳴したような音だ。  コトンコトン。  今度は立て続けに二度、響いた。また、下水からムカデが上がってきて何やら悪さをしているのか。しかし、風呂場はしっかりドアを閉めてあるから、たとえムカデが出ても外に出る畏れはない。  まずは、用を足そう。  清一はトイレに入り、洋式便器に座った。放尿を始めると、浴室のドアが開く音が聞こえた。反射的に鳥肌が立つ。ムカデが風呂場のドアを開けられるわけがない。耳をそばだてると、とんとんと床を小走りに走る足音が聞こえた。それは清一のいるトイレの前を過ぎ、そのまま階段を上がった。  廊下に出ると、風呂場の湿度で空気が淀んでいるのがわかった。二階には妻と息子がいる。そのまま放置したい臆病風を押さえ込み、清一は足音を忍ばせて二階に上がった。ぽつぽつと水滴が落ちている。間違いない。誰かが階段を上がったのだ。  清一は引き返し、ホウキを手に持った。泥棒がいたら、大声を出して威嚇してやろう。そう作戦を立てた。階段を上がりきると、息子の部屋のドアは閉まっていた。  自分が寝ていた寝室のドアは開けっぱなしだ。清一は息を殺して部屋に入り、同時に明かりのスイッチをつけた。不審者はいない。ベッドでは裸の美奈が毛布をたぐり寄せて眠っている。ただ、その髪がぐっしょりと濡れていた。どうやら、セックスの後、ひとりでシャワーを浴びたらしい。だとすれば、トイレに下りる前に見た美奈の姿は幻覚なのか。  五年ぶりに二晩も続けてセックスしたから頭が混乱したのかもしれない。  そう自分を納得させようとしたとき、息子の部屋からバタンと大きな音が聞こえた。 「どうした!」  寝室を飛び出した清一は子供部屋のドアを開け、明かりのスイッチを入れる 「シャーッ!」  窓枠の隙間に張りついた佳人(よしと)が、猛獣のように牙を剥いた。その目の異様な光に脳を貫かれ、清一は腰を抜かした。何が起きているのか、考える余裕さえなかった。目の前にいる五歳の息子は、既に人ではない。清一は這うように階段を下り、サンダルを履く間もなく、ドアの外に飛び出した。  そこにあの老人が立っていた。杖に体重をかけた老人は、足元に転がり出てきた清一を見下ろした。ガタガタと歯を鳴らす清一は、ステテコを穿いた枯れ木のような脚にすがりついた。 「出やがったか」  ぱっと家の明かりがついた。  老人は清一を助け起こし、リビングの窓の外に連れて行った。閉めた筈の雨戸は開いており、明かりのついた室内がよく見えた。リビングに続くダイニングテーブルに、佳人が座っていた。キッチンから美奈が姿を見せ、持っていた大皿をテーブルに置き、息子の正面に座った。 「いただきます!」  ふたりで手を合わせ、大皿の中に素手を突っ込み、中身をわしずかみにして口へ運んだ。それは喰われまいと必死で体をくねらせる。ムカデだ。皿の中は、全てムカデだ。ふたりは容赦なく生きたムカデをつかみ取り、むしゃむしゃと食い始めた。  いつの間にか、老人の姿はなかった。パンツにパジャマの上着を着ただけの清一は、徒歩二十分の道を歩き、駅前の不動産屋へ向かった。  夜が明け、駅前を人が歩くようになった。次第に数が増え、不動産屋の入り口に張りつくような不審者を気味悪がって通り過ぎた。やがて、交番の警官がやってきた。 「あなた、何やってんですか?」 「不動産屋の社長を待っているんです」 「何かトラブルですか?」 「ええ、まあ……」  パンツ一枚とパジャマの上着だけを身につけ、しかも裸足だ。足の裏の皮が剥けたのだろう。アスファルトには、血がついていた。警官は無線で何事かを報告した。 「社長さんの出勤、交番で待ちませんか?」  涙が溢れるほど、ありがたい言葉だった。  八時半過ぎ、交番に社長が現れた。清一が昨晩の出来事を話すと、いかにも困ったという顔でこう言った。 「そりゃあ、築五十年の事故物件ですから。色々ありますよ。でも、それについてはちゃんとご説明してますし、契約書にだって明記されてますから……」  え?  自分が買ったのは築十年の物件の筈だ。確かに新築ではないが、さすがに五十年も経った感じではない。 「だから、あそこまでお買い得な値段なんですし、それを、ちょっと出たからって、あれこれ言われましても……」 「ちょっと出たって……そりゃあ、あんまりじゃないですか」  ふと、美奈と佳人を清一は思い出した。むしゃむしゃとムカデを喰うふたりを、あのまま置いてきてしまった。  あれは、本当に美奈と佳人なのか……。 「ともかく、一緒に来てください!」  不動産会社の車で清一と社長は家に向かった。玄関前で車を止め、改めて家を眺めた清一が見たのは、二日前に引っ越してきた新居とは明らかに異なる廃屋のような家だ。  築五十年……。  清一は呟いた。しかし、美奈と佳人をそのまま放っておくわけにはいかない。 「妻と息子が中にいる筈なんです」 「は?」  不動産屋の社長がきょとんとした。 「原口さん、独身だっておっしゃったじゃないですか」 「は?」 「だから、引っ越し荷物だってシングルパックで十分だって」  そんな馬鹿な話はない。自分には美奈という妻と五歳になる佳人という息子がいる。昨夜もその前も、美奈とは愛し合ったじゃないか……。  ふと見ると、かじやま老人が立っていた。 「そろそろ潮時かもしれんなあ……」  老人は呟いた。 「五十年前、俺は女房と子供を殺して、床下に埋めたんだ。いつか掘り返されるんじゃないかって、近所に越してきて見張ってきた」  不動産屋の社長はぽかんと口を開けた。 「原口さんよ、昨晩あんたが見たのは、俺の女房と息子だ」  清一はその場に崩れ落ちた。  夢にみたマイホーム、だが、そこで暮らす家族は幻想だったのか……。  そんな馬鹿な話はあろう筈はない。現実として、美奈と佳人はこの家にいるわけだし、少なくともこの二日、家族として暮らしてきた。その幸せな日々を、捨て去るなんて、ありえない……。 「あなた、どうしたの?」  振り返ると、そこには美奈が立っていて、そのエプロンの端を握る佳人が心配そうに清一を見ていた。 「なんでもないよ」  佳人が抱えるステンレスのボールから、ぽたぽたと何かが落ちた。ムカデだ。そいつは美奈と佳人の足元で体をくねらせ、頭をもたげて周囲を伺い無数の足を波打たせて地面に潜った。 「そこにいる男、悪党よ」 「ああ、知ってるよ」  気がつくと、美奈は包丁を持っていた。 「悪党は、成敗しなきゃ……」  包丁を受け取ると、悪党どもは腰を抜かして震えた。  四つん這いで逃げようとする首根っこをつかみ、ぶすり、と背中を貫く。さらにもうひとり、ぶすり、と成敗する。  返り血を浴びた清一は、念願叶って手に入れたマイホームを見上げた。  築十年の中古だろうが、三十坪の土地だろうが、駅から徒歩二十分だろうが、電車で東京まで一時間半かかろうが、庭がほとんどなかろうが、今年が厄年の四十二歳だろうが、マイホームはマイホームだ。五十平米のURに比べたら、倍の面積もある二階建てだ。  俺と家族の夢の家だ――。 「美奈、佳人。今夜から暫く焼肉だぞ」 (了)
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