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兄ちゃんと二人、先生が彼氏さんと住んでいるというアパートに向かう。いや、もう籍を入れているのだとしたら夫婦なのだから、“旦那さん”と呼ぶのが正しいか。そこらへんははっきりしなかった。
蒼い屋根のアパートは少しだけボロかった。タチバナコーポ、という看板がかかった階段を、兄ちゃんと二人でゆっくり上がっていく。先生の家は二階の202号室。一段上がるたび、ぎし、ぎし、と嫌な音を立てて階段が軋んだ。
「!」
先生の部屋の前に来た途端、兄ちゃんが何故か不自然に固まる。
「兄ちゃん、どうしたの?」
「あ、いやその……声が」
「声?」
兄ちゃんは昔から耳がいい。僕はドア越しに部屋の中の声なんて聞こえなかったが、兄ちゃんはそうでもなかったようだ。彼は少し不審そうにドアを見つめていたが、やがて僕に笑顔を向けて“多分気のせいだ”と言った。
一体、何が聞こえたというのだろう?
「先生、いますかー?新橋ですけどー」
インターフォンを鳴らして、兄ちゃんが中に呼びかけた。するとすぐにバタバタと足音が響いて、がちゃりとドアが開く。
現れたのは、エプロン姿のエツコ先生だ。
「来てくれてありがとう、二人とも!ごめんなさいね、もうちょっとでクッキーが焼けるのよ。中で待っていてくれないかしら」
どうやら先生が僕達を家に招いたのは、それが僕への誕生日プレゼントでもあったかららしい。甘いものが大好きな僕の為に、手作りクッキーを振る舞ってくれようとしていたようだ。
「さすがは先生、よくわかってる!この分だとケーキも絶対用意してくれているな……!ハラヘッタ!」
「はいはい。食いすぎて腹壊すんじゃねーぞ、弟よ」
「わ、わかってるってば!」
僕達は促されるまま玄関を上がる。綺麗好きな先生なだけあって、中はこざっぱりとしていた。ただ、正直僕達が住んでいるマンションと比べると圧倒的に部屋が狭い。リビングダイニング以外には、小さな部屋が一つしかないようだった。正直、夫婦で暮らすにはあまり向いていないだろう。将来子供が増える可能性もあるなら尚更に。
案内されたリビングで、僕は固まることになる。
――え?
長方形のテーブル。その短辺にどっしりと座っているのは――大きな人形だった。金色の髪、青いボタンの瞳。布で出来た頬に手足、そして青いチェックのズボン。それは誰がどう見ても、綿をつめた男の子の人形だったのだ。
その人形の前に、ナイフやフォーク、箸、皿などが並べられている。まるで、今からその人形が食事をするかのように。
「ああ、ごめんなさい。紹介がまだだったわね」
先生が人形の後ろに立つと、笑顔で紹介してきたのだった。
「彼が、私と夫婦になってくれる人……シンジロウさんよ。二人とも、よろしくね」
僕は、言葉を失った。先生は何を言っているのだろう。そこにいるのは、誰がどう見ても人形だ。生きている人間では、あり得ない。なのに何故、先生はその人形を、旦那さんであるかのように自分達に紹介するのか。話しかけているのか。
「せ、先生、あの……」
「エツコ先生!旦那さんとはどのようにして出会ったのかお尋ねしてもいいですか?」
僕が違和感を口にしようとした時、兄が不自然に僕の言葉をさえぎってきた。どうして、と目で尋ねる僕に、兄は首を横に振る。黙っていろと言いたいらしい。
そんな僕達の様子に気付かなかったのか、エツコ先生は“おませさんなんだから”と頬を染めたのだった。
「そうね。ケーキとクッキーができたら……食べながら話してあげるわね」
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