恋人たちのひととき

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恋人たちのひととき

 俺とミュゼはボロボロだった。  ミュゼは飛び込み用の深いプールの底に突き落とされ、右腕と右足を骨折しているだけじゃなく、俺の大好きな彼女の額さえもぱっくりと裂けている。  しっかり縫って貰ったと言っても、彼女のつるんとした可愛い額に傷跡が残るのは避けられないだろう。  俺は悔しいと思いながら、愛しい彼女の額に口づける。  傷が痛まないように、傷を押さえているガーゼの横だ。  すると、ミュゼこそ俺の頬に手を当てて、大丈夫?なんて労わってきたのだ。 「左目は大丈夫?痛いでしょう?あなたばっかり悪者になってジュールズに殴られるだなんて」 「いいんだよ。ジュールズこそ……優しいよ。あの場で俺を君の付き添いにするために俺を殴って見せたのだから。そして、殴ってすっきりしたからって、君との婚約を取り消してもくれただろ?畜生、いい男すぎて腹が立つ」 「ハルトったら。あなたこそ優しいわ。私があなたを愛したばっかりに、あなたはこんなにひどい目にばかり合う」  俺は笑い声を立てていた。  どう見たって大怪我はミュゼの方だし、ミュゼが大怪我を負ったのは俺のせいでしかないのに、彼女は俺こそが巻き込まれていると考えているようなのである。  俺は大好きな彼女に笑いかけ、彼女の顔に垂れてきた前髪を掴んで引っ張った。  もちろん、優しく、だ。  繊細な小花の葉を引っ張るようにしてミュゼの髪を掴み、彼女の右耳のその髪の毛を掛けてあげただけだ。  癖の無い可愛いだけの、俺の大好きなミュゼの顔。 「ウサギさんみたいなふわふわな髪の毛。俺は一目見た時から、君は何て可愛い女の子なんだろうと目が離せなかった。どうしてお祖母ちゃんみたいな水着を着ているのって、俺は君を追いかけちゃったんだ。自分が自殺しようとしていた事を忘れてね。君のへたくそな歌は俺を久しぶりに笑わせてくれたんだよ」  ミュゼは俺を酷いと言って笑ったが、彼女の目は俺の褒め言葉を喜びながらも悲しそうに潤んでいる。  そうだ。  俺が彼女を愛してやまないのは、彼女が俺を理解しているからだ。  俺の抱いている喪失感。  俺は魔法特待生なんかになりたくはなかった。  でもね、ミュゼ。  俺はこの人生を今は受け入れているんだよ。  だってさ、俺は君に会えたのだから。 「ねえ、ミュゼ。頼みがあるんだ」 「うん。何でも言って」 「あの歌を歌って。あのへたくそな歌。下手くそ過ぎて何の歌か俺は未だにわかんないという不思議な歌をもう一度歌ってくれるかな?」  本当は知っている。  あなたが戻ってくれて嬉しいわと歌詞が始まる、楽園の歌、だ。  俺は君に待っていて貰えた様な気がしたんだ。 「もう!!そんな下手くそ下手くそ言う人に歌いませんよ。それに、ハルトこそ歌ってよ。私ハルトが歌うの聞いた事ない」 「ば、ばか。俺は肋骨が折れての絶対安静な――」 「絶対安静な人はベッドに戻りなさいな!」  エルヴァイラの怒声が病室に響き、俺の腕の中の幸せがそこで消えた。
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