第25楽章 なんでもない日

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第25楽章 なんでもない日

 魔楽部で魔物が逃げたことを受け、学院は対策を強化した後、その後も訓練は続けられていた。  魔術師学科は流石に討伐が早く、そこだけは1度に複数の魔物を扱うこともあった。    学生たちは増えた訓練と減ってしまった授業という生活にも慣れ、その一方で結界の噂は決して楽観視できるものではなくなってきていた。  夏休みが近づき、コールディアは追加補習を選んだ。  教員資格を取るには少しでも単位を取らなければ本来はないはずの4年生の学生生活がどんどん伸びてしまう。  それでは、ノートヴォルトの居場所作り計画を実行するために働きに出るタイミングが遅くなってしまう。  彼がすぐに応えてくれるとは思っていないが、それでも少しでも早く、多く資金を集めたいと思っていた。  このところノートヴォルトが不在の日が多い。  外でよくないことが起きている気がする。  そしてついに、掲示板には“ノートヴォルト教授の夏休み中の追加講習中止のお知らせ”が掲示されてしまった。  ずっと持ったままになっているノートヴォルトの家の鍵を使って、コールディアはいつかしたように時々彼の家の手入れをした。  換気をして軽く掃除をし、いつ戻っても気持ちよく使えるように整える。  いつもみたいに散らかっているわけではないので、すぐに終わってしまった。  もう2か月ほどは顔を見ていない。  何が起きているのか、国のどの辺にいるのかもわからない。  相変わらず不安に押しつぶされそうで、置きっぱなしだった彼のローブを手に時々泣いた。  そんなある日、彼女は少しでもノートヴォルトの記憶に縋りたくてピアノを開いた。  何を弾こうかなと思った時、中等部の特別授業で彼と弾いた“氷上のカノン”を思い出した。   「あれは楽しかったな…また一緒に弾いてくれないかな…レベルの違いがちょっと痛いけど」  そう言うと誰も追いかけてくれないカノンを1人で弾く。  ノートヴォルトの真似をして長調から短調にすると、切なさが募ってしまった。  払拭したくて、ラグタイム・アレンジを奏でる。  全然楽しそうじゃない陽気な変奏曲は、どこか空しい。  あの時と全く違う。  自分でもそう思ってしまった。 「でも先生、まさか乗って来るとは思わなかったな。ちょっと悔しい。意表を突きたかったのに」 「意表、突かれたよ。…続けて」  背中に感じる愛しい体温。  後ろから包み込むように伸ばされた黒い手が、彼女の外側の鍵盤を共に奏でた。  最後の音を弾き終わると、そのまま後ろから抱きしめられた。 「先生、おかえりなさい」 「ただいま。またすぐに行くけどね」 「会いたかったです」 「僕も会いたかったって言っていいのかな」 「いいに決まってるじゃないですか」  抱きしめられただけで心が満たされる。  無事でよかった。  生きていてよかった。  首に絡められていた手は、そのまま顎にかかり上を向かされる。  綺麗な彼の顔が見えたと思ったら、すぐに唇が重ねられた。  コールディアも腕を伸ばして彼の首に絡める。  そのまましばらく、柔らかなキスを重ねた。 「んっ…ぁ…」  もっと欲しいと思ったのに熱が離れてしまい、「そんなに物欲しそうな顔しないで」と言われてしまった。 「我慢できなくなるから」 「我慢しなくてもいいです…」 「まったく…」  軽く怒るように言った彼を振り返れば、怪我はしてないようだったけど少しやつれているように見えた。 「先生、大丈夫ですか?」 「さすがにちょっと疲れたね。結界がかなり弱い。フリーシャたちも頑張ってるけど、なかなか追いつくものじゃない。僕やレニーも少し手伝ったけど、それほど効果は期待できなかった」 「どうしてそんな急に弱くなってしまったんです?」 「単純に供給が落ちてるんだ。マギアフルイドは永久じゃないってことが証明されたね。増殖量が足りない。あれを総入れ替えするには生産が追い付かないんじゃないかな。結界が消える方が先だね」  結界が消えた時、人々はどうなるのだろうか。  魔物が侵入し、防ぎきれなければあらゆる生き物を浸食していくのだろうか。  いくら兵器と呼ばれても、体は1つしかない。  どれだけノートヴォルトが優秀だったとしても、国土の全てをカバーするには人員が足りなかった。  だからそうなったときの憂いを少しでも断つため、ノートヴォルトは駆り出され魔物の数を減らすために出撃させられ続けている。  溜まってしまったマギア・カルマがあれば、それを散らしに行く。  国が抱える大きな矛盾に、彼だけでなく宮廷魔術師たちもきっと疲労困憊だろう。 「ねえ、今夜はずっといなよ」 「はい……」  一緒にいられるのは嬉しい。  だけど今まで「帰りなさい」と言われていたのに、急にいてくれと言われると、よくわからない不安が押し寄せてくる。  本当にただ傍にいて欲しいと言うのなら喜んでそうする。  だけど今の彼の雰囲気は、「最後の夜くらいは」と言われそうで怖くなった。 「先生?」 「なに?」 「どこにも行かないですよね?」 「どこにも行けないよ。この体は」
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