序曲 先生と私のオーバーチュア

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序曲 先生と私のオーバーチュア

「先生、入りますよー?」  魔術学院の音楽棟の一室、ノートヴォルト教授の部屋をノックしたものの、いくら叩いても返事がない。  これはきっと寝落ちしているなと思い勝手に扉を開けると、案の定ピアノの鍵盤に手を置いたまま、目の前の譜面台におでこをくっつけて寝ている教授がいた。  黒いシャツとベスト、そして同色のズボン。全部漏れなく皺入り。そしてこれも学生の間では有名なよれよれの黒いローブは、ソファの上に投げ捨てるように置いてあった。  入室してきた女子学生は、ちょっと動いただけでひっくり返りそうになっているインクボトルに冷や冷やしながら蓋をすると、教授の指の間にどうにか挟まっているペンを取り上げた。  それらをデスクに置くと、容赦なく肩を揺する。 「先生―、起きてくださいー。寝落ちするなら夜ちゃんと寝てくださーい」  まあこんなものでは起きないのだが。  どうして日中寝落ちしてしまうなら、夜きちんと寝ないのか理解できない。  宮廷音楽家みたいに自由に楽曲を量産していればいいわけではないのだから、もう少し教授としての自覚を持ってほしい…とは3年くらい前から思っているのだが。  彼女は揺するのをすぐにやめると、ピアノの鍵盤、高音の方に手を置いた。  目覚ましにでもなりそうな短いフレーズを奏でる。  すると教授は苦虫を噛み潰したまま寝てしまったかのように、すさまじく嫌な顔で飛び起きた。 「コールディア、やめろ! 僕の耳元で不快な音を奏でるな」  耳を塞いで顔を上げた教授は、長い前髪で表情は全部見えなかったが目はしっかり開いたようだ。  コールディアと呼ばれた女子学生は、それを見て満足気な顔をした。 「嫌ならきちんと夜寝てください。で、もう授業なんですけど」  ここ王立魔術学院は魔術を学ぶための学校で、誰もが通うことが推奨される5歳からの初等部、10歳からの中等部の他に、13歳からの高等部がある。そして試験をクリアした者はさらに16歳で学院生となり、研究を続けたり技術を磨き続けることになる。そして18歳で卒業後、各方面の優秀な人材として活躍するのだ。  将来宮廷魔術師になりたい者はここの卒業は必須と言われ、通う者の多くは貴族だ。  コールディアが通う学部は通常の学校で言うところの音楽部にあたる魔楽部で、魔力を用いた奏法を学ぶことができる。  奏法だけでなく魔律理論や魔楽史、その他魔力を込めた音楽に関するあらゆることを学べるが、在籍している魔奏科は特に演奏に特化している。  彼女はここで、高等部の頃から本格的な魔奏グラスハープの奏者として勉強を重ねていた。  勿論今奏でたピアノも通常のピアノではなく、魔力を込めることで特殊な演奏が可能となる魔奏器の1つだ。  ピアノに関しては、外見はほぼ普通のものと変わらない。  魔奏をする者にとって楽器と言えばまず魔奏器のことであり、逆に通常の楽器は“コモン”と付けられることがある。 「なぜ美しいものをわざわざ歪める…」  教授はそう言うと、耳の残響を上書きするかのように鍵盤を叩いた。  教授の魔律はこの学院、いや国の誰よりも正確ではないだろうか。  魔律とは音に含まれる魔力の波形で、およそ150年前に発見された。  それまで音を聞き分ける能力は“絶対音感”と言われていたが、魔律の観測によりそれは魔律を正確に感じ取る能力、という学説が現在の定説となった。  “絶対魔律感”と呼ばれるこの能力が極めて…異常なほど高い教授は、自身も相当な魔律へのこだわりがあり、彼の要求する数値から髪の毛一本分でもずれたら注意を受けるほどだ。  もう教授との付き合いが6年目になるコールディアは、彼が魔律が僅かでも狂うことを非常に嫌っていることを熟知している。  魔律を1音ずつわざとずらし、不快な音にすることで彼を起こしたのだ。  と言ってもコールディアにしてみれば不快でもなんでもない。  最近カフェから流行り始めたわざと調律を狂わせたピアノは、彼女の好きな音でもあった。  もう授業が始まっている時間だが、とりあえず教授の気が済むのを待つ。  魔奏器と魔律の完璧な調和を追求する彼の演奏は、正確で美しく、だけどどこか温度が足りない。  これほど感情的な旋律で乱暴とも言える演奏をしているのに、なぜいつも寂しく感じるのか、これだけは6年目に入った今でもわからなかった。  その代わり、悲壮感のある曲を弾かせたら天才中の天才なのではないかと思う。  コールディアはそんな教授のピアノは大好きなのだが。    教授は変わり者だが実際に「天才」と呼ばれ、まだ26という教授としては異例の若さでありながら既に崇拝者とも言える支持者がいるのだ。  7歳で楽曲を王に献上し、それ以来芸術派の貴族の後援やら支援やらがあるとかないとか。
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