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咲真は高校三年生の時に実家のリビングで倒れた。五月にしては少し寒い日に、学校から帰って来たばかりの咲真は母との会話中に突然意識を失った。すぐに救急車で病院に運ばれ、その後も精密検査を受けた咲真の体に異常は見つからなかった。咲真は自分の体の事で手一杯だったが、何日か経って、母がおかしくなっていると思った。
「エマはどこ? 何でずっと居ないの?」
ある日の夕方、二階の自室から下りて来た咲真が言うと、リビングテーブルでノートパソコンと向き合っていた母が顔を上げて咲真をじっ、と見つめた。
「何?」と母がやっと言う。不機嫌そうな、それ以上の会話を拒否しているような低い声だった。咲真の知っている母はいつもそんな話し方をする印象だったが、それもこの日が最後になっていた。
「だから、エマはどこって訊いてるんだけど」
「何言ってるの、エマ」
「お母さんこそ何?」
重たい沈黙が蛇のように足元を這っていく。
「――エマ」
窘めるように名前を呼ぶ母を見て咲真は体中にひびが入った気がした。それ以上は壊れてしまう――私も母も。そう思った咲真はリビングを飛び出して階段を駆け上がった。自室のドアを開けて、そっと辺りを窺うと夜が迫っているだけで母の声も物音も一切しなかった。二階の自室ではない方の部屋のドアをちらり、と見る。どうして母は――と咲真は頭の中を駆け巡る考えに体をふらつかせながら自室に入り、ドアをきっちり閉めた。ベッドに倒れ込むようにして丸くなると、母が“エマ”と冷たく呼ぶ声が襲い掛かって来た。
咲真はドアがノックされる音で目を覚ました。いつの間にか眠っていたらしい。またノックの音がして咲真はベッドから足を滑らせるようにして下りてドア越しに、
「何」と言った。
「僕だけど」
父が帰って来る時間になっていたのか、と咲真は思いながらドアを開けた。父は咲真の自室には絶対に入らない。それは血の繋がりが無いからそうしているのか咲真には分からなかった。未婚の母と結婚した父は、咲真が物心付く頃には“父”として存在していて、血の繋がりがあろうとなかろうと咲真には重要ではなかった。
「具合が悪いのかい?」
背の高い父が優しい眼差しで言う。父の少し気取ったような態度は自制心から来ている。咲真にとって血の繋がった母よりも、父の方が話しやすかった。
「体調は普通」
「そう……」
迷っている様子の父はスーツの上着を脱いだだけの格好で、着替える間も与えられず母と話をしたのだろう。咲真も何を言っていいのか分からなかった。
「――自分の名前を言えるかな」
沈黙を破って父が言う。まるで初めて会った時のようだった。
「……エミ」
咲真は俯いて不安を抑えながら答えた。
「そう……」と父は言った後、「何だか混乱するね」
その声に咲真は泣きそうになったが、父はもっと大変な境遇に立たされているのではないかと思った。妻はおかしくなっているし、子供の一人は原因不明で倒れ、もう一人は行方不明――咲真は父が可哀想に思えた。
「お母さんの事は僕に任せて。……君は安心して、部屋に居ていいからね。食事はとったのかい?」
「食欲ない」
「分かった。欲しいものがあったら僕が買いに行くから、今日はもう休んで。……それから」
咲真が顔を上げるのを待っていたかのような間を挟んだ父は、真剣な顔でこう言った。
「僕達は君を大切に思っているよ」
「……うん。ありがとう、お父さん」
返事をして咲真はドアを閉める。その場に立ち尽くしたまま、階段を下りる足音が遠ざかっていくのを聞いていた。
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