心を『無』にせよ

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心を『無』にせよ

キィキィとブランコが軋む。菜奈はあれからぽつりぽつりとこれまでの事を岩爺に話した。結婚しても仕事を全力で続けていたこと、子供が出来て全てが変わったこと、引っ越して転職もしてパートになったこと、日々の楽しみを見失っていたこと、そして、『忍術』が菜奈の生活の物凄いアクセントとなったこと。 「……なるほどのう。」 全てをうんうんと頷きながら聞いてくれた岩爺はブランコから降りると菜奈の正面に来て、囲いにヒョイと腰かけた。 「わしは今初めてこの話を聞いた第三者じゃ。あくまでも赤の他人の勝手な推測や意見じゃが……聞くかね?」 「はい、お願いします。……客観的な意見が、一番欲しかったのかも。」 菜奈は、正面から岩爺を捉えた。なんでもいい。なんでもいいから、今は少しでも前に進むための指標が欲しい。 「まず、お主、パート勤務である自分を過小評価しとらんかね?」 「へ?そう、でしょうか……?」 「正社員とパート社員のメリットとデメリットは何じゃと思う?」 「正社員は社会的にも安定していますし昇進や昇給も見込めますが、その分時間の縛りが大きいですし、責任も大きいです。パートなら、昇進や昇給はあまり見込めませんしお給料も安いですが、決まった時間で働けますし、子育てにリソースを割くことができるので……。」 「つまり、パートよりも正社員が偉い、ということかの?」 「そう、いう、わけじゃ、ない、ですけど……。」 菜奈は思わず返答に詰まった。どちらが偉いとかいう問題ではない。正社員とパートでは、領分が違うのだ。ただ、パートの教育を正社員が担うことは多いし、パートには付与されていない権限を正社員が持っている事で色々と便利だったり不便だったりはする。 「少なくとも、自分はパートの身分に『堕ちた』身なのだと、思っとらんかね?どうも儂にはそう聞こえるんじゃが。」 正直、図星だった。正社員時代は、「権限を持っている自分がやりますから」と言って、どんどんパートに『指示』を出していた。逆に今は、「自分には権限がないのだから早くやってくれ」と正社員をつついている。丸っきりの責任転嫁だ。けれど、その差が給与の差となって如実に現れているのではないのか。報酬を受け取る者が、受け取るだけの仕事をするべきではないのか。 「それと、子育てのために自らを大きく犠牲にしておるようじゃの。」 「それは……だって、竜太郎が一番、大切だから……。」 「儂には、色々やることの言い訳に子供を使っているようにしか聞こえんがの。」 頭をぶん殴られたような衝撃だった。……つまり、この老人は、自分を努力不足と言っているのだ。カサカサの肌も、ボサボサの髪も、泥だらけのスニーカーも、ノーブランドでおむつが詰め込まれたリュックも。 「わ、わ、わ、わたし、だって、できるなら……!できる、ならっ……!」 自分でも信じられない程激烈に湧き上がって来る怒りに、うまく言葉が出てこない。拳がわなわなと震えて、ジワリと涙が滲んだ。 自分に、時間を、お金を、思う存分かけられたら、どんなにいいだろう。ハイヒールを履いて子供を抱くワーキングママに憧れていた頃もあった。けれど、今は「そんな靴で子供の足でも踏んだらどうするの。大体子供と一緒に走れないじゃない。」なんて言って、彼女たちを小馬鹿にしている。 だけど、私だって。本当は靴箱に眠っているピンヒールを履きたい。産後太りでもう入らない華奢なスカートも履きたいし、頑張って買ったブラウスやスカート、ジャケットを身に着けて、ホテルでランチしたい……!全て、叶わぬ夢なのだ。叶わぬなら、願わなければいい。そう思って、何も考えないようにしてきたのに。 「そこまで怒れるということは、本当は自分に何もしてやれないこの時間が、歯痒いんじゃないかの?本当になりたい自分、本当にやりたいこと、そういうものを捨てて向き合われた子供は、それだけのものを背負うことになるんじゃぞ?」 「……え……?」 「お主が『子供のために』と捨てたもの。それは、子供にそれ以上の価値があると決めてかかっているも同然じゃ。子供の価値なんぞ親が決めるもんじゃない。自ずと決まっていくもんじゃろ?捨てたものが多いからと言って、それが子供の価値を上げる事にはならん。お主の自己評価が下がるだけじゃ。」 ……もう、何も言えなかった。ただただ、涙がとめどなく流れていく。 どうして、今まで自分をわざと傷つけていたのだろう。どうして、わざわざ魅力を感じないものを選んでいたのだろう。別に、素敵だと思うリュックを買えば良かったのだ。ピンヒールでなくとも、公園を走れるお洒落な靴を買えば良かったのだ。どこかで、意地を張って『これが相応しい』と押し付けてくる自分が居たのではないか。涙と共に、憑き物が落ちていくような心地がする。少し、視界が開けた気すらした。 「もう、大丈夫なようじゃの。完璧主義で忍術を習得しようとすると却って大変なんじゃ。」 「……はぇ?」 急な話題転換で、思わず変な声が出た。 「お主、肩の力が大分入っているように見えたからの。肩の力を抜いて、心を無にして印を切り、唱えるのじゃ。」 「じゃぁえっと……口寄せ!」 ぼんっ!と白煙が立ち込め、目の前には、自分の身長を遥かに上回る…… 「ひぎゃああああああ!カエルううううううううう!!!」 鳴海菜奈、三十三歳。苦手なものは、爬虫類。 プチ家出をキメた三十三歳児の叫びが、しばらく公園に木霊していたのっだった。
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