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第二章【逃げるため】 蜜木
◆
ここはネノシマ。
雲宿が公認する唯一の遊郭。
それが、葦原遊郭である。
今宵も、葦原遊郭に明かりが灯る。
葦原大門の戸が開く。
開門と同時に、男たちがぞろぞろと遊郭へと吸い込まれていく。
葦原遊郭の唯一の出入り口、大門の横には赤坂蜜木の勤務する九郎兵衛番所がある。九郎兵衛番所では主に、出入りする者の中にお尋ね者がいないか、遊女の逃亡がないかを見張っている。それ以外にも、遊郭内の面倒事は九郎兵衛番所が取り扱うことになる。
遊郭に訪れる客は実に様々で、その中にはもちろん官吏もいる。だからこそこの遊郭の面倒事は、内々に処理されることがほとんどである。
そもそも九郎兵衛番所の武官以外の立ち入りがあれば、その見世にはあらぬ噂が立ち、あっという間に経営は傾いていてしまう。そのため遊郭の面倒事は、何事も秘密裏にされることが多い。
「さっきも竹原屋に、妙な鬼虚が現れた。やっぱりそれが出てくるのは日の入り後って感じだな。このままだと、竹原屋に妙な噂が立つのも時間の問題かも知れないな。さすがに目撃している者は、少ないとは思うが」
浮真船人はそういって、蜜木の隣にどっかりと座った。蜜木にとって船人は、部下であり、同門の兄弟子であり、近所に住む六つ上の幼なじみである。
「竹原屋の中では混乱とか、そういうのはありました?」
蜜木は船人に問うた。
「なにもなかったよ。通常営業だ。竹原屋で働く者たちも、鬼虚には気付いていないんだろ」
「気付いていないなら、その方がいいですね」
「そうだな。そういえば、さっきの男はどうなった? 酔っ払って変なもん買わされた、詐欺だなんだって騒いでた男だ。最近、別の武官も、そんな男の対応をしたと聞いたが」
「あああ、ありましたね。今回の男も、似たようなものでした。変な紙を、それらしい理由で買わされたってことでした。それを売った者の特徴を聞いてみたんですけど。四十過ぎの男だったという以外に、目立った情報はありませんでした。そもそもこの男は、罪に問えないでしょうね」
「売りつけられたといっても、本人が納得して金を払ってるわけだからな」
船人はそういって息を吐いた。
「話を戻すが、竹原屋の鬼虚は、河田屋の件とは完全に無関係だと断定できそうだな」
先日は河田屋という中見世に、ちょっとした事件があった。その事件に関しても、やはりひっそりと解決した。九郎兵衛番所に勤務する武官の中で、その件を知っていたのは船人だけである。それほどに遊郭での面倒事は、特に妖怪に関係することは秘密裏に解決するのが常である。
船人は竹原屋に現れる鬼虚も、河田屋と関係しているのではないかと考えていたようだった。河田屋と竹原屋は隣接しているので、そう思っても不思議はない。
しかし河田屋の件が解決されても、竹原屋には変わらず鬼虚が現れているのだった。
「俺たちがあの鬼虚に気付いて今日で五日か。命令どおり、楼主にだけは報告しておいた」
遊女たちに鬼虚の件を連携するかは、楼主次第である。
しかし睦言で客になにをいうか分からないので、遊女には問題事を連携しない楼主がほとんどである。
「ありがとうございます。楼主の反応はどうでした?」
「迷惑千万という顔をしてたな。楼主と鬼虚は、無関係だろうな。銀将には、昨日のうちに報告書を飛ばしてくれたんだったな」
「はい。今夜も同じような鬼虚が出るようなら、もう一度報告してくれってことでした。なので、翌朝にでも報告します。本日の朝から非番とのことなので」
銀将である瀬戸銀幽は、遊郭出身の妖将官である。さらに現在遊郭は、銀将の管轄になっている。
銀幽は妖将官を仕事として遊郭の中に入れることを、ほとんどしない。だからこそ前回の河田屋の件についても、銀幽の采配で妖将官の介入なしで解決したのだった。
「鬼虚は妖将官の担当ですよね。河田屋の時と同じく、妖将官なしで解決できるといいんですけど」
蜜木はいった。
鬼虚に気付いているのは、九郎兵衛番所の中でも船人と蜜木だけである。九郎兵衛番所に勤務している武官といえど、見世に通う者は多い。武官に関しても睦言で竹原屋の件を話さないとも限らない。だからこそ遊郭での妖怪関連の事件は、連携義務はないのだった。
「河田屋の件は特例だったと思うがね」
船人はぽつりといった。
「どんな風に解決したのかは知りませんが、銀将はやはり恐ろしく優秀な人ですね」
その後で「そもそも妖将官というのは、みんな恐ろしい」と、蜜木は呟いた。
「与兵がいってらぁ」
船人は愉快そうに笑ったので、蜜木もつられて笑顔になった。
与兵とは、妖将官から武官へと転属した者のことである。妖将官から武官へと転属する者は少なくない。妖将官とは、それほどに過酷な職なのである。
与兵は武官では五等官からの扱いで、蜜木はそれからさらに昇級を重ねた。そのため現在は、船人の上官である。
それでも蜜木は部下である船人に敬語を使うし、船人も蜜木に敬語を使わない。蜜木にとってはそれが自然なことで、そして心地いいのだった。
◆
翌朝、蜜木は銀幽に報告書を飛ばす前に、竹原屋の楼主に話を聞いてみることにした。
楼主は六十代と思われる小柄な男である。
「鬼虚の件で心当たり、ですか。結局は女郎屋ですからね。誰がどこでどんな恨みを買っているかは、わかりませんよ」
楼主はそういって、苦笑した。
鬼虚とは俗にいう「よくないもの」が集まり、黒い霧のような形状をなしてしまったもののことである。それは生き物が持つ、憎悪や負の感情であるとされている。
そういうものが集まりやすい場所は、だいたい決まっている。墓場や自殺の名所とされる場所である。そしてその他にも、人の集まる場所にも鬼虚が出やすいとされている。
さらには鬼虚が発生する場所では、よくないことが起こりやすいともされている。
「あなたもご存知の通り、僕は竹原屋でも遊ばせてもらってますし、秘密は守ります」
蜜木は色んな見世に客として顔を出している。もちろん遊女を抱くためではなく、こういう時のためである。
「鬼虚の件を解決する際に、見世の内情の一つも知りませんでしたってんじゃ、上からお叱りを受けちまうんですよ。なにか手がかりでもあれば助かります」
蜜木はそういって、頭を掻いた。
人は自分に不都合のない範囲でしか物事を語らない。しかし自分の方が優位であると悟った際に、饒舌になることを蜜木は知っていた。
「赤坂さんにそういわれたんじゃねぇ。しかし本当に、これといった心当たりはないんですよ。女たちが客と揉めたって話もありません。でもまあ、なんていうか。大した秘密ではないんですが」
楼主は小さく息を吐いた。
「一ヶ月ほど前にうちで働き始めた雅火という遊女は、妖狐です」
楼主が前置きしたように、それは大した秘密ではなかった。
人間に化けることのできる妖怪は、遊郭に働きにくることがある。妖怪は親の借金の形で売られることもないので、自ら出稼ぎにくるのである。人に化ける妖怪を好む客も少なからず存在する。もしくは好みの女や、手が出せない遊女の姿になってもらうこともあるらしい。人間以外が遊郭で働くことについては、切見世長屋ではなんとなく容認されている。しかし大見世や中見世、そして竹原屋のような小見世については一応人間の女だけが働いていることになっている。しかし実際には、そうともいえないのが現状である。
遊郭で妖怪が働くことについては、人間側にも利点がある。妖怪は鬼虚を養分とする個体も多くいる。そういう妖怪が遊郭にいてくれる場合、鬼虚を消費してくれるのでそれの発生するのを防いでくれるのである。
「一応禁止にはなっていますが、それについては咎められることはないでしょう。しかしその妖狐。雅火、ですか。どんな経緯で、竹原屋で働くようになったんですか」
遊郭で働く妖怪のほとんどが「お金がもらえるから」とか「ご飯が出るから」とか、そういう理由が多いと聞いている。
「一方的に許嫁に婚約破棄をいいつけてきたんで、身を隠したいってことでした。事情が事情なんで、迷ったんですがね。まあ問題なく人間に化けられるんで、ここで働くことを了承しました」
「その許嫁から逃げるために、ここに来たわけですか」
「そういうことになります。その許嫁ってのは、それなりに名のある一族の妖狐らしいんです。だからこんなところまで逃げてきたんでしょう」
雅火が許嫁から恨みを買っている可能性は充分にあるだろう。
「雅火に会っておきたいんですが、よろしいでしょうか。長く時間は取らせません」
「それは構いませんよ。雅火には常連がいるんですが、昼見世には顔を出しませんので」
◇
楼主は雅火の部屋の前まで、蜜木を案内してくれた。
「雅火、入るぞ」
楼主はそういって襖を開けた。
部屋には色の白い、ほっそりとした女性が窓辺に座っていた。妖狐であると知っていなければ、人間であると疑わなかっただろう。
「あら。いい男だねぇ」
「九郎兵衛番所の与兵さんだ。気付いてるかも知れないが、連日この辺に鬼虚が出るらしい。それについて話を聞きたいってことだから、協力してくれ。他の遊女には口外するなよ」
楼主はそういうと「じゃあ、私は仕事に戻ります」と部屋を出た。
「鬼虚ねぇ」
雅火はそういった後で「おや?」といって、なにかに気づいたように蜜木に近づいてきた。
「微かに槐山の匂いがするね」
「ああ、この耳飾りは槐山で取れた鉱石でできてるんだ」
蜜木はそういって、自分の耳飾りに触れた。
雅火は「ふーん」と無遠慮に蜜木を見つめた。
「鉱石ね。でも、それだけじゃないだろ」
雅火は試すような目で蜜木を見つめた。
「どういうことだ?」
「私がここにいる理由は聞いたかい?」
雅火は蜜木の質問には答えず、質問を返した。
「許嫁から身を隠していると聞いた。その許嫁は、名のある一族の妖狐であるとも」
「大我。それが私の許嫁の名だよ。元許嫁、だね」
「大我?」
その名は聞いたこがあるように思った。
記憶を探れば、必ずその正体が分かる。蜜木はそう確信していた。しかしその思考は雅火の声によって中断された。
「夜風一族」
雅火の声に、蜜木の心臓は一拍跳ねた。
夜風とは、蜜木が葬った妖狐の名である。
「大我は夜風一族の妖狐なんだよ」
それを聞いて、蜜木は大我の正体を合点した。
「そうか。大我の許嫁だったのか。俺は夜風一族の末娘、宵と結婚の約束をしているんだ。名は蜜木」
蜜木がいうと、雅火は「へぇ」と目を輝かせた。
「夜風一族の誰かと親しい関係だとは思ったけど。末娘の宵の婚約者か。つまり夜風を葬ったのは、あんたなんだね」
雅火はそういって興味深そうに蜜木を見た。
「大我の差し金かとも思ったが、その反応を見るに無関係だね」
「無関係だよ。そもそも俺は、彼岸の時期以外は夜風一族との接触を禁止されているんだ。だから大我には二、三度会った程度だ。長兄のセツ以外とは、みんなその程度だ」
「あそこは大所帯だから無理もないね。兄弟がどれだけいるのかさえ、私も正確には把握してないよ」
雅火はそういって笑った。
宵の兄姉は多い。
しかし数いる宵の兄姉の中でも、大我は一番気性が荒いといわれていた。
幼い頃はひどい癇癪を起こして手がつけられないことも、しばしばあったらしい。大我と年の近い兄姉たちは、よく傷だらけにされていたとも聞いている。
それでも大我の豪快で愚直な性格は、兄姉たちに好かれていたし、信頼もされていた。
蜜木も大我については、嘘のない男であると思っている。
しかしその大我が一方的に婚約破棄を言い渡された場合、どんな手段にでるのか蜜木には想像もつかなかった。
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