9人が本棚に入れています
本棚に追加
第十章【抱きついて】蜜木
◆
竹原屋へと走り出した朔馬は、蜜木は九郎兵衛番所で待機していた方がいいと短く告げた。
もしかしたら朔馬は、大我が竹原屋に入った気配を察していたのかも知れなかった。
いずれにせよ蜜木は、朔馬の指示通りに九郎兵衛番所にいたおかげで大我と接触せずにすんだのだった。
「俺が竹原屋に着いた時には、もうすべてが解決した後だったよ」
船人はそういって、自分が見たことを蜜木に伝えてくれた。
大我と朔馬が立て続けに竹原屋に突入したことで、見世の中は一時的に騒然としていたらしい。しかし朔馬とハロが二匹のキツネを抱えて雅火の部屋から出てくると、その騒ぎもすぐにおさまったらしい。その場にいた者は竹原屋にキツネが侵入し、それを捕らえただけであると理解したようだった。
「平吉は今、雅火の部屋で寝かせてもらってる。命に別状はないが、しばらく起きないだろうってことだ。雅火と大我は、朔馬たちが稲荷神社に連れていった。蜜木と大我を接触させるわけにはいかないし、その方が落ち着くのも早いだろうって話だ。楼主に雅火の外出許可を取ったんだが、雅火が望むならこのまま竹原屋に戻らなくてもいいってことだった。雅火は元々精算するものもないし、だいぶ稼がせてもらったからってな」
楼主の采配はずいぶん気前がいいものであった。
もしかしたら楼主は鬼虚の原因が雅火にあるのではないかと、薄々感じていたのかもしれない。
「お、帰ってきたな」
船人の視線の先には、こちらに歩いてくる朔馬とハロの姿があった。船人が手を上げると、二人もこちらに手を上げた。
「わざわざすみません。ありがとうございます」
蜜木は立ち上がって礼をいった。
「蜜木が謝ることじゃないよ。稲荷神社にいた方が、雅火も落ち着くと思うから。大我は運んでる途中で目が覚めて、雅火に付き添ってくれてるよ」
「そうか、それはよかった」
船人はいった。
「雅火の幻術を斬ったけど、鬼虚を斬る感触と似てたな。今回の件は、雅火が原因で間違いないと思う。なんとなくだけど、幻術の中で心中しようとしてた気配があった。平吉と幼なじみの落とし所がそこだったのか、単純に雅火の幻術が暴走してたのかはわからないけどね。でもとにかく、今日が七日目だったんだろうな」
背筋がひやりとするようなことをさらりというので、蜜木と船人は同時に息を飲んだ。
朔馬はただ、自分の右手を確認するように見つめるばかりであった。肢刀を振るう際に、その妖怪の過去や思念に触れてしまうことがある。きっと朔馬は今までも、幾度となくそんな経験をしてきたのだろう。
朔馬がなにを考え、なにを感じているのかは、蜜木には到底わからないことであった。
それから朔馬は、雅火が持っていたという紺色のお守りを蜜木に渡した。
「平吉のまじないの懐紙と、芳江の手紙が入ってたよ」
つまりは朔馬の予想通りだったわけである。
「今後の調査については、別の妖将官に引き継がれると思う。銀幽は原因が判明した後の調査は、誰がしてもいいと思ってるはずだから」
事実、河田屋の事件が解決した後は調査に入ったのは朔馬以外の妖将官であった。事件の原因を潰した後だからこそ、妖将官が出入りしていると噂が立っても河田屋の評判に大きな変化はなかった。
「俺たちはこれから、大我を槐山に送ってくるよ。雅火についてはどうする? 俺の独断なら、雅火も一時的に山に帰すかな。雅火は山育ちだから、人混みに酔ったというか、人の思念に触れすぎて、疲れてると思うから」
朔馬は判断を仰ぐように蜜木を見た。
「あなたがそういうなら、そうした方がいいでしょう。あとで事情を聞くことになると思いますが、一時的に山に帰してもらっていいでしょうか」
「じゃあ、大我と一緒に送ってくるよ。今日の報告は俺からも銀幽にしておくけど、詳細な報告書は九郎兵衛番所に求められると思う」
朔馬はそういって、この場を去ろうとしたので蜜木と船人は慌てて「お世話になりました」と頭を下げた。
すると朔馬の隣にいたハロは、なにかを思い出したかのように「あ」と蜜木をみた。
「どうしました?」
「宵さんに、伝言をつたえました」
「ああ、ありがとうございます」
蜜木は自分の伝言を思い出して、急に恥ずかしく思った。
それからハロは「えっと」といって、蜜木を見つめた。そしてその後で、朔馬を見た。
「なに?」
「ここに立ってくれる?」
ハロはそういって、蜜木の目の前を指した。
「うん?」
「抱きついていい?」
ハロがいうと、朔馬は「いいよ」と即答した。
船人は「なんだ。なにが始まるんだ」と小さくいった。蜜木も同じ気持ちであったが、黙ってそれを見ていた。
「朔馬と私を抱きしめてもらっていいですか」
ハロはそういって蜜木を見た。
「あ、はい」
蜜木は考えることを放棄して「失礼します」と、いわれるがままに朔馬とハロを抱きしめた。
「伝言をつたえた後なんですけど。宵さんは私を抱きしめてくれました」
ハロはそういった後で「もちろん朔馬越しじゃないですけど」と付け加えた。
「私もいつも会いたいと、そういっていました」
瞬間、蜜木の心は現実から離され、槐山の宵の家にいた。
手紙やそういうやりとりは、自分たちには意味がない。
互いにそう思っているから、そういうやりとりをしたことはなかったし、しようという話も出なかった。
しかしどうしてそんな風に思い込んでいたのだろうと思うほどには、ハロから聞く宵の言葉は蜜木の心に染み渡った。
そして、じんと胸が熱くなった。
心を殺して仕事をしているわけではない。
それでも宵を感じる時だけ、自分にも心があったことを思い出す。
自分が本来どんな人間だったのかを思い出す。それを自分に思い出させてくれるのは、半年に一度しか会えずともやはり宵だけなのだった。
それを今、深く自覚していた。
会いたいと、なによりも大切だと、そんなことは常日頃思っている。
しかしそれは、伝えないと伝わらない。伝えたところで、それが正確に伝わるのかもわからない。それでも、伝える努力はするべきなのかも知れなかった。伝わる範囲にいるうちに、何度でもくり返し、伝えるべきなのかも知れなかった。
夏の夕暮れに二人に抱きつかれている朔馬は、おそらくかなり暑かったと思う。
それでも朔馬は、なにもいわなかった。それはハロも同様であった。
いい加減、二人から離れるべきである。
頭ではそう思っていても、蜜木にはなかなかそれができなかった。
どうしても、二人から離れることができなかった。
離れてしまうのが、名残惜しかった。
最初のコメントを投稿しよう!