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第六章【ほらみろ!】波浪
◆
葦原遊郭を出ると、私と朔馬は槐山へと向かった。
宵の家付近と思われる場所で駕籠を降りてからは、蜜木の描いてくれた地図を頼りに山道を歩いた。
山の奥というのは実はそれほど草が茂っていないと聞いたことがあるが、実際にそんな感じであった。標高もそれなりにありそうなので、生えている植物も限られているのかもしれない。
七月末のせいか、夕方といえる時間帯でもまだまだ日が暮れる気配はない。それでいて耐えられない暑さでもないので、山の中は比較的に歩きやすかった。
「毅が変なTシャツ着てるって、いつ気付いたの?」
いつものように脈絡のない会話をしていると、朔馬は思い出したようにいった。
「最初から気付いてたよ。気付かなかった?」
朔馬は「うん」といった。
朔馬はとんでもなく微細なことに気づくこともあれば、こんなこともあるので、人間の感覚とは本当に不思議なものである。
「でもハロに指摘されて、本当に変なTシャツだったから、面白かった」
私たちは先ほどの毅の反応を思い出して、再び短く笑い合った。
「あのまま出掛けてもらってもよかったんだけど。さすがに透子が可哀相だなと思って」
「毅はなんで、あの服着てたんだろう?」
朔馬はさらりと辛辣なことをいった。
「なにも考えてないと思う。たぶん適当に、着てきただけだと思う。毅って、着ない服大量に持ってるから」
「着ない服かぁ」
朔馬がそういった後で、彼の持ち物は極端に少ないことを思い出した。もしかしたら朔馬にはわからない感覚なのかも知れなかった。
「なんだろう。使わないけど、なんとなく持ってるものってない? その感覚に近いと思う」
朔馬は思考した後で「身体測定の結果とか?」といった。
私は「そうそう!」と反射的にいった。しかしすぐに「ちょっと違うな」と思った。
「ごめん。やっぱり、ちょっと違うかも」
「え、違うの? じゃあ、なんだろう。ワイシャツを多めに持ってる感じ?」
「それは予備でしょ」
「そうか、たしかに。なんだろう。正解したいな」
「なにが正解なのか、自信なくなってきた。でも、そもそもどうして人は着ない服を持ってるんだろう」
私たちはそんなどうでもいい話をしながら、山の中を歩いた。
そうこうしているうちに、私たちはそれらしき家を発見した。
それと同時に、庭先で草を摘む女性も目に入った。銀色の髪を持つ美しい女性だった。
「こんにちは」
朔馬が声を掛けると、その女性はこちらに視線を向けた。
「君は、宵だな」
その女性は一拍置いて「こんにちは」といって、草を摘む手を止めて立ち上がった。
「君は、私たちの暴走を止めてくれた子どもか?」
私たちは相変わらず式神に見える羽織りを身につけていたが、宵は朔馬を見ていった。
「うん。名は朔馬」
朔馬がいうと、宵は「見えやすくなったな」と表情を緩ませた。
「今日俺がここに来たことは、念のため他言無用で頼む」
「私たちの暴走を止めてくれた恩もある。それに、誰にいうでもない」
宵はそういって、私の方に視線を向けた。
「ハロと呼んで下さい」
「君も、人間か? 二人ともなんだか、妙な気配だな」
「はい、人間です」
私が肯定すると宵は「うん、見えやすくなった」と、微笑んだ。
「式神に見える羽織りを身に着けてるんだけど。妖狐には人間だとバレるのかな」
朔馬はいった。
「強い確信があるわけではないがな、なんとなく人間だと思った。それに私は、朔馬に斬られた過去がある。そのことは、強烈に覚えていた」
「そういえば宵を斬ったのも俺だったか?」
朔馬は他人事のようにいった。
「夜風一族のほとんどは、朔馬に斬られたはずだ」
「それなら大我も、俺が斬ったのかな。今日は、大我に会うためにここに来たんだ」
朔馬がいうと、宵は私たちにずいと近づいた。
「蜜木の匂いがする。蜜木からの頼まれごとか?」
「その通りだよ。しかしそれだけ鼻が敏感だと、人里に下りると苦労もありそうだな」
おそらくそれは宵だけに向けられたものでなく、雅火にも同じことを思ったのだろう。
「蜜木の匂いは私にとっては特別だ。それに私たちは嗅覚が敏感なだけで、その匂いを強烈に感じるわけではない。人間は私たちより繊細に色を見分けるというし、それと同じような感覚だろ」
同じ人間といえど、見える色は違うと聞いたことがあるのでその説明には説得力があった。
「とにかく久しぶりの来客だ。茶くらい出そう」
宵はそういって私たちを家へと招いてくれた。
◇
私たちは一旦家の中に通されたが「縁側の方が涼しいか」と、宵とともに縁側に移動した。
それから宵は、私たちにお茶を出してくれた。
喉が乾いていたので、私たちはありがたくそれをいただいた。
「さっきもいったけど、大我に会うためにここに来たんだ。ここで待っていれば、顔を出すかな」
朔馬はいった。
「気が向けば顔を出すとは思う。しかし年に一度、あるかないかといったところだな。でもセツが呼び出せば、大我は顔を出すと思う。大我が槐山にいればの話だがな」
「セツ?」
「セツは夜風一族の長兄だ。大我はあまり人の話を気がないが、自分が格上と判断したらそれなりに耳も貸すからな」
「セツは、大我よりも強いってことなのか」
「今はわからない。でも大我は昔から乱暴者だったから、幼い時に一度だけ、セツに締め上げられたことがあるらしい」
宵はそういうと、右手の親指と人差し指を口に入れて指笛を吹いた。
「セツを呼んだ。ほどなく来ると思う。そうでなくても、毎日顔を出してくれるがな」
ほどなく庭先には、ふわりと風が拭いた。
そうかと思うと、狐面をつけたすらりと背の高い男が目の前に現れた。
「その姿で現れるなんてめずらしいな、セツ」
「人間とも、なんとも判断がつかぬ妙な匂いがしたからな。それに宵が俺を呼ぶのもめずらしい。気合いを入れてきた」
この狐面の男が、長兄のセツであるらしい。
「この者は、三年前に私たちを止めてくれた子どもだ。名は朔馬」
「あの時の子どもか。なんとも覚えのある匂いだと思った。大変、世話になったな」
セツはそういって、朔馬に頭を下げた。
三年前、大妖怪といわれる夜風が死んだ。夜風が死んだ際、その毒気に当てられて夜風一族は不本意にも凶暴化した。それらの暴走を止めるために、朔馬は槐山に派遣されたのだと先ほど教えてもらった。宵がいったように、夜風一族のほとんどは朔馬に斬られたようである。
「俺は仕事をしただけだよ。頭を下げられるようなことはしていない」
「かすかに蜜木の匂いがするな。それに、横にいる者も人間か?」
セツは私を見た。
「人間だよ、ハロだ。俺たちは蜜木の上官に依頼されて、ここに来たんだ」
「大我に会いに来たんだったな。大我が何かしたのか?」
「疑惑があるというだけだよ」
「疑惑か。大我は自制心はないが、人間に一方的に危害を加えるほど馬鹿ではないと妹の立場からいっておこう」
自制心がないというのは、なかなかの評価であるように思ったが彼女なりの擁護だったらしい。
「ちなみに君たちは、大我の許嫁と面識はあるか?」
朔馬の質問に「許嫁?」「雅火のことか」と、宵とセツは同時に口を開いた。
「ああ、雅火か。何度か会ったことはある。最近は全然見ていないな」
宵は思い出したようにいった。
どれほど兄弟が多いのかはわからないが、その許嫁とか恋人とかの数になると全員を把握するのは難しいのだろう。
「雅火はたしか今、遊郭にいるんじゃなかったか?」
セツはそういった後で「そういえば蜜木の勤務先も、遊郭だったか」といった。
「遊郭? なぜそんな場所にいるんだ?」
宵は怪訝な顔をした。
「理由は知らない。しかし雅火は少し前に、大我に一方的に婚約破棄を申し出たんだ。大我も最初こそは気にした様子はなかったが、最近になってそわそわしていた。それで雅火を探していたんだ。そしてつい先日、雅火が遊郭にいるようだと突き止めていたぞ」
セツは淡々といった。
「そこまで知っているなら話が早い。雅火のいる見世に、最近鬼虚が現れるらしいんだ。その鬼虚の原因は大我ではないかと疑惑が上がっている。だから俺たちは、大我に話を聞くためにここにきた」
「大我とは無関係だろう。大我は今日か明日にでも、遊郭に乗り込むといっていたからな」
セツはさらりと怖いことをいった。
「たしかに大我なら、直接雅火に会おうとする以外の行動はしないだろうな」
宵も同意した。
「大我については、みんなそんな感じのことをいうな」
私も朔馬と同じ感想を持っていた。
「それに俺たちは鬼虚の力を利用することもあるが、それだけだ。自在に生み出したり、操ることはできない」
セツはいった。
「鬼虚と無関係だとしても、遊郭に乗り込もうとしているんじゃ止める必要はあるかな。いや、それは放っておいていいのかな?」
私は「それは止めよう」と、首を振った。
「そうだね。念のため鬼虚のことも本人から聞きたいし、呼び出してもらえないか」
朔馬はいった。
「夜風一族の恩人だ、それくらいなら協力しよう」
セツはそういうと、キツネの姿になって拓けた場所へと駆け出した。そして顎を上げて天を仰ぐと、美しい遠吠えをあげた。
槐山が小さくざわめいたように感じられた。
遠吠えが充分に響き渡ったことを確認すると、セツは人間の姿になって縁側に戻ってきた。
「ありがとう。助かるよ」
「これくらいなら、造作もない。しかし俺は、遊郭に乗り込もうとする大我を止めようとは思っていない。それだけは今のうちに伝えておこう」
「なぜだ?」
そういったのは宵だった。
「大我と雅火は幼い頃から仲良しだった。しかし雅火が突然、一方的に婚約破棄をしたわけだ。大我が怒るのも仕方がないだろ」
「そうだとしても、他者に迷惑がかかる可能性があるなら止めるべきだ。遊郭には、私たちが見たこともない数の人間がいるんだぞ」
宵は問い詰めるようにいった。
「そうなる前に朔馬が止めてくれるだろう。下手な妖将官に斬られるよりは、よほど運がいい」
セツは朔馬にかなり厚い信頼をおいてくれているらしい。
「朔馬を含めた他者に迷惑を掛けるべきでないといっているんだ。未然に防げるなら、そうするべきだ。セツが大我を止めないのは、怠慢だ」
宵がいうとセツはむっとした様子だった。
「大我と雅火を許嫁にしたのは、お父様だぞ。雅火のわがままでその約束が反故にされるのは、夜風の名が汚れるとは思わないのか」
「大我が人様に迷惑をかけるのは、夜風一族の名を汚すことにならないのか」
セツはわかりやすく言葉に詰まった様子だった。
「それにセツにも、お父様が決めた許嫁がいただろ。雅火も自由にさせるべきだ」
セツは面食らったように「え、いたか?」と小さい声で、宵に問うた。
「いただろ! 真っ白な美しい妖狐だった。でも気が強くて、セツはよく噛まれてた」
「あ、いた。いたな」
セツは気まずい様子で肯定した。
「あの子とはどうなったんだ?」
「どうなったというわけでもない。いつの間にか会わなくなった。それだけだ」
「許嫁とは、その程度のものだろ。雅火が婚約破棄をしても、夜風の名は汚れない」
「それは、そうかもしれないが」
弁が立つのは圧倒的に宵の方らしい。
「いや、でも。大我と雅火はイトコ同士だ! 結びつきが違う」
セツの歯切れは悪くなった。おそらく最後の抵抗といったところだろう。
「関係ない」
宵はきっぱりといった。
「し、しかし! 大我の気持ちを考えると、可哀相じゃないか。大我は雅火が好きなんだ」
セツは攻め方を変えて、大我に同情する方向にしたようである。
「それについては、誰かがどうこういう問題じゃないだろ。それに大我は、いつも好きなように女遊びをしていただろ。愛想を尽かされても仕方がない」
「遊んでいただけだろ!」
セツはクズみたいなことをいった。
宵は「聞いたか?」という感じで、私の顔を見た。彼女は私が女であることはわかっているようである。
「それは、最悪ですね。愛想を尽かします」
私はすかさず宵に加勢した。
「ほらみろ! 最悪だ。とにかく、大我が誰かに迷惑をかける前に止めるべきだ。この二人は、わざわざそのためにここに来てくれたようなものだぞ」
宵がいうとセツは思考を整理するように押し黙った。
「そうか。わかった。そ、そうだな! その際は、止めて欲しいと思う」
セツは意見をころり変えて、私たちに頭を下げた。
思考が柔軟であるのは、セツの長所なのだろう。さらにはそれを愛嬌といっていいように思える。
「それは、もちろん。そのつもりでここにいるわけだから」
朔馬がいうとセツはほっとした様子であった。
直後、ひんやりとした風が縁側に流れてきた。
そして先ほどまで感じていた緑や土の匂いとは、少し違った香りが鼻をかすめた。
「大我。来たか」
セツはいった。
銀髪の長い髪に、褐色の肌。そして着流しを来た長身の男が私たちの前に立っていた。彼が大我であるらしい。セツの顔はキツネ面で隠されているが、その背格好は血の繋がりを感じさせるものであった。
「セツがお呼びとは、めずらしいことだ」
「お前がこんなに早く来るのも、めずらしいことだ」
「妙な匂いがしたからな。しかし、強烈に覚えている匂いだ」
大我は朔馬に挑むような視線を送った。
「三年前、私たちを止めてくれた子どもだ。名は朔馬」
宵はいった。
大我は「へぇ!」と感嘆を吐いて、朔馬を見つめた。
「俺をあっさりと斬り捨てた、あの時の子どもか! 手も足も出なかったことは、今も記憶に新しい」
大我は目をきらきらと輝かせた。
「正気を失っていたように見えたが、覚えているのか?」
朔馬はいった。
「覚えている! それはもう、はっきりとな! 俺はあの日まで、人間に負かされるとは夢にも思っていなかった」
大我はそういいながら、ずいずいと朔馬に近づいてきた。
「俺は、お前を気に入っている。強い者は好きだ!」
大我は朔馬に顔を近づけて、くんくんと匂いをかいだ。
その後で、大我は不思議そうに朔馬を見つめた。
「雅火。そして蜜木の匂いもするな。遊郭から来たのか?」
「そうだ。雅火のいる見世の周辺で鬼虚が現れるんだ。心当たりはないか?」
「そんなの、俺が知るはずないだろ」
大我はあっさりといった。その言葉は、に嘘はないように思われた。
「俺は今夜、雅火に話をつけにいくつもりなんだ。雅火の周りでそういうことがあるんじゃ、連れて帰る必要もあるだろうな!」
「そのことだが大我、人様に迷惑をかけるようなことはするな。自分の思い通りにいかずとも、癇癪を起こしたりするなよ」
セツはいった。先ほどとは意見が変わったらしく、完全に大我を止める側に回ってくれるようだった。
「俺はただ、雅火と話したいだけだ。人間に迷惑がかかるかどうかは、向こう次第だな!」
「やめておけ。大我と雅火が遊郭でやりあったら、とんでもない騒ぎになる」
宵は呆れたようにいった。
「もしそうなったとしても、人里に逃げた雅火が悪いだろ!」
大我と雅火が遊郭でケンカをした場合、鬼虚の件以上に面倒なことになりそうであった。
「暴れる可能性があるなら、俺は大我を遊郭には入れさせないぞ」
朔馬はぴしゃりといった。
大我はその言葉に一瞬だけひるんだようだった。朔馬の強さを体感したからこその反応なのだろう。
「もう子どもではないんだ、聞き分けろ。散々女遊びをしていた大我にも非はある」
宵の言葉がかなり響いたのか、セツはいった。
「しかし一方的に婚約破棄を言い渡されたままでは、こちらの気が済まない! これに関しては、向こうにも非があるだろ! 俺は雅火と話がしたいだけだ!」
大我がいうと、セツも宵も言葉に窮した。
「話がしたいだけなら、俺たちと一緒に雅火のところへいくか?」
朔馬はいった。
大我を挑発しているわけではなく、善意の提案という感じであった。
「もし騒ぎを起こすようなら、俺の判断で拘束する。本当に話し合いをしたいだけなら、それで問題はないだろ」
大我はなにかを飲み込むようにして、大きく息を吐いた。
「いいだろう! 連れていってもらおうか!」
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