第七章【別棟】蜜木

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第七章【別棟】蜜木

◆  槐山に向かう朔馬たちを見送った後で、蜜木は九郎兵衛番所へ戻った。 「おかえり。あの二人は?」  番所に戻ると、船人はいった。 「今、槐山に向かってくれたところです」 「そうか。槐山も、天気が良ければいいな」  蜜木は心の底から「そうですね」と同意した。  そして槐山にいるはずの宵に想いを馳せようとしている自分の思考を、無理に断ち切った。  それから蜜木は、先ほど遊郭で聞いた話を船人に連携した。もちろん、ハロから聞いたことも含めた内容である。 「好きな人ねぇ。たしかに誰かから逃げるのに、ここを選ぶ女はあまりいないか」 「そうですね。鬼虚の件とは無関係かも知れませんが、聞けてよかったです」 「しかし染物屋の平吉が雅火の客なわけか。最近よく顔を見るなとは思っていたが」 「知り合いですか?」 「多少な。でも俺と平吉個人に関しては、蕎麦屋で何度か会ったことがある程度だ」  船人は昼食を毎日、同じ蕎麦屋で食べている。 「でもうちが絵師の家系で、向こうが染物屋だからな。家同士の繋がりがあるにはある。平吉は婿養子だが、今では染物屋を仕切るほどの腕前だと聞いてる」  鉱物で色を作るとか、そういう部分で繋がりがあるのだろうか。とにかく平吉なる人物を知る上では、貴重な情報であった。染物屋を仕切る人間なら、おそらくこの時間も染物屋にいるだろう。 「しかし想い人に化けてもらうなんざ、業が深い話だな」  船人は小さく息を吐いた。 「雅火は平吉に惚れているわけですが、平吉に関しては雅火自身に執着はないように思います。鬼虚とはあまり関係ないように思いますが、時間があれば平吉から話を聞いてきて欲しいといわれました」  平吉に話を聞いて、鬼虚とは無関係だった場合、竹原屋には噂が立つ可能性はある。だからこそ蜜木は、朔馬に頼まれた聞き込みといえど、慎重になる必要があると思っていた。  船人はそれを悟ってか「なるほどねぇ」と小さくいった。 「そういえば、まだ昼を食ってないんだが、抜けていいか?」 「あ、すみません。それは、もちろん構いません」  お昼が夕方にずれ込むことはそれほどめずらしくない。しかし船人は蜜木の不在をあずかってくれていたので、気付かないことを申し訳なく思った。 「また、蕎麦ですか?」  蜜木がいうと、船人は「もちろん、蕎麦だよ」と笑った。 ◇  船人が帰ってきたのは、それから三十分ほど経った頃だった。 「平吉の想い人ってのは、芳江(よしえ)という幼なじみだそうだ。今は遠方に嫁いで、こっちに帰ってくることもほとんどないらしい」 「誰に話を聞いてきたんですか?」  蜜木はあっけにとられつつ、質問した。 「蕎麦屋の主人と、蕎麦屋にいた顔馴染みにな」  船人が通う蕎麦屋は、人間の往来が多い場所にある。そのため町の情報は自然と集まってくるようである。  蜜木が適当な見世に顔を出すのと同じく、船人もまたこうした情報を集めるために、毎日同じ蕎麦屋に通っているのかも知れなかった。しかしそれを確認したところで、船人は「あの蕎麦屋が好きなだけだよ」と答えるだけだろう。 「平吉は、その幼なじみに失恋して婿養子の縁談を受けたってことなんですかね」 「それが、そうじゃないらしい。二人は恋仲だったが、平吉に婿養子の縁談が持ち上がったんで芳江と別れたって話だ。自分から手放したからこその、未練なのかもな」 「未練といっても、芳江の方が辛かったでしょうに」 「芳江に関しては、今となっては吹っ切れてると思うぞ。遠方に嫁ぐことが決まった際に、平吉は未練がましく芳江に手紙を送ったらしいが、芳江は平吉にもらった染め物と一緒に、もう会えないって手紙を返してきたそうだ。その手紙には、血判(けっぱん)まで押されてたって話だ」  誰がどんな風にそんな話を聞きつけたのかは分からないが、友人にこぼした愚痴が広がっていることはめずらしくない。 「贈ったものを返されたわけですか。それはそれで辛いですね」 「それでも平吉は芳江が忘れられず、自分が捨てた未来を夢見て、遊郭に通ってるわけか。そうでなくても男はみんな、夢を見るためにここ来るんだろうけどな」  遊女は「夜の蝶」と呼ばれることがある。  さらには蝶の異名は、夢見鳥である。夜の蝶なんて名は、たしかに遊女にふさわしい。船人がいうように、ここに来る者はみな夢を見にやってくる。 「平吉とは別件だが、妙な噂も聞いた。酔っ払って変な買い物をしたって、騒いでるヤツがいただろ。実際に酔っ払いに目をつけて、妙なものを売る男がいるって話だ」 「酔っ払いに声を掛けてものを売るなんて、良心的ですね」 「俺もそう思う。財布を抜けばそれでいい話だ。でも見つかれば窃盗罪だからな。罪に問われるよりは、酔っ払いを騙す方が安全だと思ってるんだろ」 「酔っ払いが、絶対にそれを買うという確証でもあるんですかね。紙を買わされたとかいってましたけど」  船人とそんな話をしていると、筆鳥が蜜木の前に降り立った。 「九郎兵衛番所与兵、赤坂蜜木。こちら槐山、ハロ。これから大我をつれて、そちらへ向かう。一時間程度、遊郭から離れていて欲しい。以上」  筆鳥は履歴みたいなものは残らない。しかし筆鳥の伝言を聞く際に、周りに誰かがいることを懸念して、ハロが筆鳥を飛ばしたのだろう。  伝言を聞いた蜜木と船人は顔を見合わせた。 「たぶんすぐ着くんだろうな。早くここから離れた方がいい。どうせなら、平吉に話を聞いてみたらどうだ?」  それから船人は平吉のいる染物屋の場所を口頭で教えてくれた。 「わかりました。酔っ払いに妙なものを売る男を探しているからそれに協力して欲しいってことで、平吉からそれとなく雅火の話を聞いてみます。一時間経った頃に戻りますんで、二人をよろしくお願いします」  そして蜜木は足早に、九郎兵衛番所から遠ざかった。 ◇  船人が教えてくれた場所にいってみると、蜜木が想像していたよりも大きな規模の染物屋があった。ここの婿養子になる縁談が持ち上がったのならば、断る職人は少ないだろう。  それから蜜木はその辺にいる若い職人をつかまえて、最近この辺で酔っ払いに妙な物を売りつける男が出没するという話をした。そしてその被害にあった者を知らないかと聞いてみた。  蜜木の様相から、こちらが官吏であることはすぐに理解してくれたようであった。職人は真剣に記憶を辿った後で「わからないですねぇ」と答えてくれた。 「そういう者がいることは、お仲間たちにも伝えていただけると助かります。被害にあわないのが一番いいですから」  蜜木が微笑むと、職人は「わかりました」と短く答えた。 「ここを取り仕切っている方は、今ここにいらっしゃいますか? ここで働く者たちへの注意喚起を促す意味でも、念のため私の口からお伝えしたいのですが」  その若い職人は「平吉さんは別棟にいるんで、ご案内します」と、敷地内の小さな別棟に案内してくれた。  平吉は狭い小屋で一人、真剣な眼差しで作業をしていた。  職人が平吉に声を掛けると、平吉は蜜木の姿を見て軽く頭を下げた。 「こんにちは。武官の、赤坂蜜木と申します」  一般人には与兵(よへい)といっても通じるものは少ない。  平吉は少々戸惑った様子であったが、若い職人は蜜木がここに来た事情を手短に伝えてくれた。平吉はその職人にお礼をいった後で、持ち場へ戻るようにと促した。 「急な用事でもありませんので、作業の区切りがついたら、話をさせてください」  蜜木が笑顔を向けると、平吉は「じゃあ、もうちょっとだけ」といって作業を再開した。  平吉がどんな人間なのかはわからない。しかし仕事に真剣に打ち込む姿は、好感が持てた。この仕事が好きなのだろうとも感じられた。 「すみません、お待たせしました」  平吉はそういって、頭につけていた手拭いを取った。 「いえ、こちらこそ。仕事中に申し訳ありません。私も実家は職人が出入りする家なので、懐かしく思って見学していました」  蜜木が微笑むと、平吉は「お恥ずかしい」といって笑顔を見せた。  笑うと目尻が下がり、目元にはくしゃっとシワが出る。この笑顔を向けられたら、悪い気がする者はいないだろう。 「さっきの職人さんが伝えてくれた通り、最近この辺に酔っ払いに妙なものを売りつける男がいます。その男を探しているんですが、ご協力いただけませんか」  注意喚起をして欲しいと職人にいったのは事実であったが、平吉と話がしたいのは雅火のことについてだった。そのため蜜木は平吉から「知らない」という言葉が出た後で、どうやって遊郭の話に持っていこうかと頭の隅で考えていた。  しかし平吉の様子を見て、気が変わった。  平吉は「あー、そうなんですね」と一瞬だけ目を泳がせた。心当たりがあることは明白であった。 「少しでも知っていることがあれば、お聞きかせ下さい。なるべく早くその男を捕まえたいと思っているんです」  蜜木はできるだけ優しい声でいった。 「酔っていてあまり覚えていないのですが、たぶん一週間ほど前に会いました」  平吉の口ぶりから察するに、平吉もその男からなにかを買ったのだろう。 「当日の様子を、できる限り詳しく教えて下さい。他の者からも事情は聞いているので、だいたいで構いません」  それは半分嘘で、半分事実だった。  しかし他者も口を割っていると知らせた方が、平吉の口は軽くなるだろうと思った。  平吉は戸惑った表情のままで、ぽつぽつと話し始めた。  平吉がその男に会ったのは、大門近くの居酒屋だった。  泥酔していたのでよく覚えていないが、それほど背の高くない四十代以上と思われる男に声を掛けられた。 「想い人がいるなら、それが成就する方法を教えてやろうか」  男はそんな言葉で平吉に近づいてきた。 「そりゃあいい。どんな方法なんだ?」 「いわゆる、まじないってヤツだよ。ただで教えるわけにはいかないが、お前さんになら特別に教えてやるよ」  まじない。もしそれが本物であれば、呪術の一種である。その呪術が有効なものだった場合、これはそれなりに厄介な事件になる予感がした。  そして九郎兵衛番所に訪れた者たちが、何を買ったのかと問うと途端にごまかすのも無知はないと思った。 「そのまじないなんですが。あなたの場合は、どういったものでしたか。妙な紙と証言する者もいましたが」  蜜木はできるだけ事務的な口調でいった。 「私も紙でした。懐紙です。そしてそこには、陣のようなものが書かれていました。だから、そのまじないは本物かも知れない、なんて思ったんです」  蜜木は口を挟まず「聞いたとおりだな」という雰囲気でうなずいた。 「その陣の中に、自分の名と想い人の名前を書いて血判を押したらいいとのことでした。さらには想い人にそれを持たせたら、七日もすれば成就するだろうとも」 「その懐紙は今、お持ちでしょうか?」  蜜木の言葉に、平吉の目は微かに泳いだ。 「いえ、失くしました」  平吉は少しだけ早口でいった。蜜木の直感が、それは嘘だと告げていた。 「そうですか。それを失くした時、懐紙に名前は書いてありましたか?」  平吉は動揺したように閉口した。 「そんなに構えなくても大丈夫ですよ。書いている者がほとんどでした」  それらを買う者は、すぐに実行したいと考えるのが自然である。 「その懐紙を買う際に、その場で名前を書きました」  その場で名前を書いたなら、たとえ酔っていても、やっぱり返すとはならないのだろう。 「失礼ですが、そこには奥さんの名を書いたんでしょうか? あ、いえ。失くされたとのことですが、焦った様子がないのでそう思いまして。でも私が話を聞いた者の中に、伴侶の名を書いた者は一人もいませんでした」  平吉は明らかに狼狽した様子だった。 「お察しの通り、妻の名ではありません。でもその懐紙を失くしたというのも、嘘というわけではないんです」 「どこかに捨てたとか、そういうことでしょうか?」 「記憶が朧げなんですが、遊女に渡したような気もしているんです。それに失くしたなら遊郭だろうと思っているので、焦るとかそういう気持ちはありませんでした」 「では、その懐紙には遊女の名を書いたわけですか?」 「いえ、別の者の名を書きました」  おそらく幼なじみの芳江の名を書いたのだろう。 そしてそれを遊女、つまりは雅火に渡した可能性がある。その事実は、朔馬たちにも報告すべきだと思った。そしてそれは雅火から回収するべきであるとも思った。  それから蜜木は、それとなく遊郭の話を振ってみた。 しかしそれらの会話をする中で、平吉は鬼虚の件とは無関係だろうと思った。 「わかりました。お仕事中、ありがとうございました」  蜜木はそういって頭を下げた。 「いえ、今日はもう上がろうと思っていたところです」  蜜木が切り上げる素振りを見せたせいか、平吉は安堵したようにいった。 「ちなみに、その懐紙を渡した日といいますか、失くした日を覚えていますか?」 「それを買った翌日だったと思います。だからほど一週間前でしょうか」 ――七日もすれば成就する  いやな風が吹いた。
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