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第八章【少し黙って】波浪
◆
私と朔馬は、大我とともに遊郭へ戻ることになった。
槐山を発つ前に、私は筆鳥を使って蜜木に伝言を告げた。朔馬に頼まれたわけであるが、一度筆鳥を飛ばして見たかったので快諾した。
筆鳥は伝言を飛ばす際に、発信者の体の一部を所望する。それは、発信者を偽れないようにするためと、筆鳥への対価となるらしい。
私はいわれた伝言を終えると、筆鳥に手のひらを見せた。すると筆鳥は私の手をぺろりと舐めた。これで筆鳥は、私の汗や皮膚組織を取り込んだことになるらしい。
筆鳥に舐められた手のひらには少しだけ痛いような、くすぐったいような感覚が残った。
「一時間っていったけど、時間の単位ってそれでよかったっけ?」
「一時間でも、一刻でも、どっちでも通じるから大丈夫だよ。年配の人は後者を使うことが多いけど」
私たちが筆鳥を飛ばした後、ほどなくして朔馬が呼んだ銀幽の駕籠が頭上に現れた。
そして駕籠にのる前に、私は蜜木から預かった言葉を宵に伝えた。
「そうか。ありがとう」
宵は喜ぶでもなく、無表情のままいった。
「触っても?」
私が「はい」というと同時に、宵はぎゅっと私を抱きしめた。そして私の耳元で小さく言葉を吐いた。
その声は駕籠にのった後でも、ずっと私の耳に残り続けた。
「さすがに早いご来着だな。蜜木はさっき遊郭から出ていったところだ」
船人はそういって私たちを迎えてくれた。
「急に勝手なことをして悪かったかな。こちら、大我だ」
船人は大我を妖狐だと認識していなかったらしく「なるほど」と、大我を見つめた。大我も目を逸らすことなく、船人にしっかりと視線を返した。
「大我は雅火と直接話したいってことだから、連れてきたんだ。俺たちと一緒に、竹原屋に通してもらっていいかな。ケンカになったりするようなことがあれば、俺が責任をとるよ」
朔馬はそういった後で「いや、責任をとるのは銀幽か」と小さくいった。
「竹原屋に通せばいいんだな。了解だ」
◇
船人と竹原屋にいくと、楼主は「もうじき大門が開くので、できれば手短に」と見世の中に通してくれた。
「俺は同席しない方がいいか。竹原屋の前で待ってる」
船人は楼主に声をかけて、竹原屋から出ていった。
私たちはそれを見送った後で、雅火の部屋へと向かった。
もうすぐ大門が開くせいか、見世の中は先ほどよりもそわそわしている印象を受けた。
「いるな。雅火がいる」
雅火の部屋の前に着くと、大我は小さくいった。
朔馬は「雅火、入るぞ」と、声を掛けた。
「はいよ」
おそらく雅火も大我の匂いには気付いているはずである。それでも雅火の声は、ひどく落ち着いて響いた。
朔馬が襖を開けると、雅火はやはりわかっていたように大我だけを見つめていた。
「久しいな」
大我の声は怒っているような、挑むような、そんな声だった。
そんな大我を見つめて、雅火は大袈裟にため息をついた。
「なんだって、こんなところまで来ちまうかね」
「お前が逃げなければ、こんな場所までは来なかったさ。とにかく、山に帰るぞ! 話はそれからだ!」
大我は暴れる素振りは見せなかったが、それなりに大きな声でいった。
おそらく朔馬がここにいることで、どうにか冷静さを保っているのだろう。
「山には帰らない」
雅火は拒絶するようにいった。
「なぜだ! なぜ急に、婚約破棄などというんだ!」
「許嫁の約束なんて、あってなかったようなもんだろ」
「俺はそうは思ってないし、破棄も認めていない! いいから、山に帰るぞ! ここにいては、お前はダメになる! それに、このままでは迷惑になるぞ!」
「迷惑になるのは、あんただけだよ。私は、ここにいる」
「そもそもなぜ、こんな場所にいるんだ! こんなところにいる必要もないだろ!」
大我の言葉を受けて、雅火は私を見つめた。
私と朔馬は雅火が遊郭にいる理由を、槐山ではあえて口にしなかった。私たちが伝える必要もないと思ったし、本人から聞くべきだろうと思っていたためである。
「好きな人ができたんだよ。私は好きな人と会うために、ここにいるんだよ」
雅火がいうと、大我は静止した。
途端に男女の匂いがしたので、私と朔馬は静かに目を合わせて席を立とうとした。
しかし私と朔馬は大我に袴を引かれたので、立ち上がることはできなかった。振り払うことは容易だったと思う。しかしそれをしなかったのは、大我の手が震えていたからである。さらに大我は、今にも泣きそうな顔をしていたからだった。
大我が婚約破棄について、怒っていることは理解していた。しかし大我はそれ以前にただ単純に、純粋に、大我は雅火が好きなのだった。
私と朔馬は目を合わせて、その場に座り直した。
「私に好きな人ができて、婚約破棄をした。それで話は終わりだろ」
沈黙する大我に追い打ちをかけるように、雅火はいった。
「お前の好きな人ってのは、どこのどいつなんだ?」
「あんたがその人に何かしたら、私は絶対にあんたを許さない! それにあんただって、今まで散々好きにやってきたろ」
「好きにやってきたし、これからも好きにするさ! でも俺は、婚約破棄は認めない!」
「そんな婚約になんの意味があるんだい。もうあんたの相手をするのは、疲れちまったんだよ」
雅火は吐き捨てるようにいった。
「そうかよ。ここでしか会えないお前の好きな人とは、さぞ上手くいってるんだろうなぁ!」
大我が挑発的にいうと、雅火はカッと目を見開いた。
しかしそれも一瞬のことだった。
「なんとでもいえばいい。これ以上、あんたとは話したくない。出ていっておくれ」
雅火は本当に、これ以上大我と話す気はないようだった。
大我は「うそだ」と小さくいった。
「お前はまだ俺を好きだろう! 俺がこんなに聞き分けがないのは、きっとそのせいだ。俺は何年でもお前を待てる! お前だってそうだったろ!」
雅火は首を振った。
「あんたのそのまっすぐで嘘がつけないところが好きだった。それに、あんたといた季節が一番眩しかったよ。でも、今は辛いばっかりなんだよ。少なからずあんたに情はあるよ。でも、それだけなんだよ。私はもう、あの人のことしか考えられないんだ」
雅火はそういって、紺色のお守りを見つめた。
大我の目からは、つぅと音もなく一筋の涙が流れた。
「あんたのそんな姿なんて見たくないんだよ。早く、出ていっておくれ」
雅火は大我を見ずにいった。
出会ったばかりの私でさえ、胸が締め付けられる想いだったので雅火はその比ではないのだろう。
「大我、いこう。これ以上は雅火の仕事の邪魔になる」
仕事中の朔馬にしては、比較的やさしい声だった。
大我はそれほどまでに傷ついた顔をしていた。
「お前はその男といて、本当に幸せなのか」
大我は絞り出すようにいった。
「幸せだよ」
大我は「そうか」と消え入るような声でいうと、キツネの姿になりその場にうずくまってしまった。その姿はみるみる小さくなり、ウサギほどの大きさになってしまった。
私が大我を抱き上げると、大我はすがるように私の肩にその顔を押し付けた。私は反射的に大我のふわふわした背中を撫でた。
「急に訪ねて悪かったな。話し合いに応じてくれてありがとう」
雅火は窓を向いたまま、こちらに手を振った。
◇
雅火の部屋を出て竹原屋の中を歩いていくうちに、大我は私の首に巻き付いてマフラーのようになっていた。
朔馬に「苦しくない?」といわれたが、私は「大丈夫」と返答した。
苦しくはないが、それなり暑かった。しかしそれを伝えることはしなかった。大我は自分の尻尾を噛みしめて、行き場のない感情を抑えていた。私にはそれが、痛いほど伝わっていたからである。
竹原屋を出ていく際に、楼主に「お連れ様は?」と聞かれた。朔馬は無言で、私の首元を指した。楼主は大我が妖狐だったことを受け入れた様子で「あ、左様で」といった。雅火が妖狐と知っているので、それほど驚きはなかったようである。
私と朔馬は、楼主に頭を下げて見世を出た。
私たちが竹原屋を出ると、船人は「どうした?」という顔を向けた。
「話せたよ」
朔馬はいった。
「それなら、何よりだが」
それから私たちはほとんど無言のまま、九郎兵衛番所のある大門に向かって歩き始めた。
大門が見える頃、大我は私の首からするりと離れた。
「少し独りになりたい」
地面に着地した大我は、大型犬ほどキツネの姿になった。おそらくこれが本来の姿なのだろう。
「わかった。もうすぐ蜜木も遊郭に戻ってくるだろうし、それがいいと思う。槐山には送っていくから、その辺の稲荷神社にいてくれ。その方が気も紛れるだろ」
大我は「そうだな」と力なくいうと、煙のようにその場から消えた。
「大丈夫なのか?」
船人は不安げにいった。
「すごく落ち込んでるけど、大丈夫だと思う。他の人に迷惑をかけるようなことはしないと思う」
「そうか、それならいいが。鬼虚の件とは、関係していたか?」
船人はいった。
「大我も本人も否定していたし、無関係だと思う」
「朔馬がそういうんじゃ、そうなんだろうな」
「そっちはなにか、進展はあった?」
それから船人は、雅火の想い人である平吉の情報を共有してくれた。
「蜜木も、もう戻ってくると思う。筆鳥が来てからもう一時間経つからな」
世界から昼の気配が消え始め、夕方が静かに迫っていた。
「銀幽からは、日暮れまでこの件を調査して欲しいっていわれてるんだ。でも念のため、鬼虚を見てから帰ろうかな。だいたいこの時間に鬼虚が出るんだろ」
「そうだな。日が暮れて少し経った頃という感じだな。あ。うわさをすれば、だな」
船人の視線の先には、こちらに歩いてくる蜜木がいた。
「ついさっき、大我が遊郭から去ったところだったよ」
朔馬はそういった後で、大我は鬼虚と無関係だろうと蜜木にも報告した。
「あまり収穫はなかったかな」
「大我が無関係と分かっただけでも充分な収穫ですよ。それに平吉のことを知れたのも大きかったです。ありがとうございました」
「そういえば平吉の件は、どうだった? 新しい収穫はあったか?」
船人がいうと、蜜木は平吉から聞いた話を教えてくれた。
「変なもんを買わされたってヤツらは、そのまじないを買ったわけか」
「そうだったのかも知れませんね。その懐紙なんですが、雅火が平吉からその懐紙を渡された可能性が高いので、明日にでも聞いてみます」
大門が開き、遊郭内は次第に賑わいをみせていた。
「でも、平吉と芳江の名前が書かれた懐紙だろ? 破り捨ててやしないか?」
「雅火が文字を読めるかはわからないし、部屋に忍ばせただけの可能性もあると思う」
朔馬がいうと、船人は「それもそうか」と納得した。
「その懐紙なんですけど、一枚だけ回収できました」
蜜木はそういって、私たちに懐紙を見せた。それは手紙くらいの懐紙だった。
「これはどこで手に入れたんだ?」
船人はいった。
「平吉が声を掛けられた居酒屋で聞き込みをしている時に、同じものを売りつけられたかも知れないという者がいたんです。その男の袖の中から、この懐紙が出てきたんで証拠品として預かってきました。酔いがさめた今では、遊女の本名もわからないし、効果を信じていないからってことでした」
「つまりここに書かれてる女の名は、遊女の名か。実際に効果はあるのかね?」
船人はそういって朔馬を見た。その朔馬は「どうだろう?」と私を見た。
呪術に関しては、私の方が詳しいと思っているせいだろう。私は建辰坊から呪術を教えてもらっているが、詳しいのかと問われるとそうでもないように思う。
しかし懐紙にかかれた呪陣のようなものをみて、直感することはあった。
「この呪陣、発動しないと思う」
呪陣には一定の規則が存在するが、懐紙にかかれた陣はその条件を満たしていなかった。
「なんだかこの陣、違和感というか。変な感じがする」
私がいうと「未完成だからかな?」と、朔馬も懐紙を見つめた。
朔馬がいうように、その呪陣は未完成だった。間違った呪陣というわけでなく、あと一息でそれが完成しない。そんな気味の悪い呪陣だった。
朔馬の言葉に私は「うーん」と曖昧な返事をして、その違和感を探った。
「しかし妖将官ってのは妖術だけでなく、呪術にも明るいのか。呪術なんて、どこで学ぶんだ?」
船人はいった。
「神様とか妖怪に接してると、たまに教えてくれることがあるよ」
「妖将官って感じだな。でもあれだろ。神様とか妖怪とかは気に入った人間にしか教えないんだろ。若くて顔がいいってのは、特なことしかねぇな」
「関係ないと思うけど」
「あと十年もすれば、身にしみてわかると思うぞ」
「あと十年経っても、彼は二十五歳ですよ」
「なんだそれ、愕然とするな!」
船人がいうと、三人は短く笑った。
「あとは、同じ任務についた上官からも教えてもらうこともあるかな。蜜木もそうだっただろ?」
「そうですね。片手で足りるほどですけど」
蜜木は苦笑した。
「俺もそれほど多くはないよ。でもハロは、俺より呪術に詳しいと思う」
二人は「ほう」と、私に視線を向けた。その視線からは「だから朔馬と肩を並べているのか」というような雰囲気があった。
私は内心、少し黙ってくれないかなと思いつつも、朔馬が楽しげなのはいいことだなと思った。朔馬がネノシマで気の許せる人は、あまりいない。そう感じているからだった。
銀幽さんのことは信頼していても、気を許しているわけでもないように思う。
そもそも朔馬はネノシマでは一人で行動することが多かったのかも知れない。だからこそネノシマの人は朔馬が連れて歩く私のことを気にするのかも知れなかった。
そう思った直後、私は呪陣の違和感に気がついた。
「相手の血判もあれば、この呪陣は発動すると思います」
私が顔を上げると、三人は再び懐紙を見つめた。
「つまりこのまじないってのは、自分の血判だけでは意味がないのか。相手に血判を貰えるような間柄でないと成立しないってことか」
「血を必要とする呪術はそれなりに危険を伴うと聞いたことがあるんですが、万が一にも発動した場合はどうなりますか?」
「一時的に人の心が変わるとか、催眠状態になる程度には効果はあると思います」
私はいった。
「それは穏やかではないな。鬼虚とは無関係でも、この事案は早急に調査した方がいいだろうな」
蜜木は「そうですね」といって懐紙をしまった。
「ちょっと、引っかからないか?」
朔馬はぽつりといった。
「平吉に送られた幼なじみの手紙には、血判があったといってなかったか?」
見つめられた船人は、一拍置いて「ああ」と返事をした。予想だにしない質問だったからだろう。
「別れの手紙に、血判があったらしいって話だった」
「もし、血判が押された手紙と、その懐紙が一緒に保管されていた場合、発動条件を満たすことにはならないか?」
――中にはちゃんとご利益のあるお札みたいなものが入ってある
そういった雅火の声が蘇ってきた。
そしてそれは朔馬も同様だったようである。
「想い人へのまじないと、想い人から受け取った手紙か。一緒にしている可能性はあるな。そういえば雅火は最近、張見世にも出ずに前日から平吉に指名されてるって話だったな。平吉は、しっかり雅火に入れ上げてるってことか」
「でも、名前も血判も芳江のものですよね」
蜜木はいった。
「名前も血判も、本来は雅火とは無関係だ。でも、雅火が芳江に化けたり、芳江の幻術を見せたりしている間は、そのまじないが妙な作用を起こしているかも知れない。それが鬼虚となって出現している可能性はある」
朔馬は思考を整理するように静かにいった。
「そうなると、どうなるんだ? 雅火は鬼虚なら幻術の養分にでもするし、なんてことないって様子だったんだろ」
「雅火はなぜか、鬼虚に気付いた様子はなかった。もしかして雅火自身が鬼虚の原因だから、それに気付かなかったのかも知れない」
朔馬はそういうと顔を上げた。
「雅火は発生した鬼虚を無意識に取り込んで、必要以上に強い術を使っているかも知れない。その場合、幻術を使う雅火も、それを見ている平吉も危険だ」
――ここにいては、お前はダメになる!
どうしてか大我の先ほどの言葉が蘇った。
「待て待て。平吉は俺たちとすれ違いに、竹原屋へ向かったぞ」
「平吉が雅火にそれを渡して、今日が七日目かも知れない。いやな予感がする!」
船人の声を聞くと、朔馬は走り出した。
私と朔馬は、大我とともに遊郭へ向かうことになった。
槐山を発つ前に、私は筆鳥を使って蜜木に伝言を告げた。ネノシマの時間の単位はいまいち不明であるが、一時間といって充分に通じるらしい。
筆鳥は伝言を飛ばす際に、発信者の体の一部を所望する。発信者を偽れないようにするためと、筆鳥への対価を兼ねているらしい。
伝言を終えると、私は筆鳥に手のひらを見せた。筆鳥は私の手をぺろりと舐めた。そうすることで、私の汗や皮膚組織を取り込んだことになるらしい。その感覚は少しだけ痛いような、くすぐったいような感覚だった。
それから私は、宵に蜜木からの言葉を伝えた。
「そうか。ありがとう」
宵は喜ぶでもなく、無表情のままいった。
「触っても?」
私が「はい」というと同時に、宵はぎゅっと私を抱きしめた。そして私の耳元で小さく言葉を吐いた。
その声は九郎兵衛番所に向かう駕籠に乗った後でも、ずっと私の耳に残り続けた。
「さすがに早いご来着だな。蜜木はさっき遊郭から出ていったところだ」
船人はそういって私たちを迎えてくれた。
「急に勝手なことをして悪かったかな。こちら、大我だ」
船人は大我を妖狐だと認識していなかったらしく「なるほど」と、大我を見つめた。大我も目を逸らすことなく、船人にしっかりとした視線を返した。
「大我は雅火と直接話したいってことだから、連れてきたんだ。俺たちと一緒に、竹原屋に通してもらっていいかな。ケンカになったりするようなことがあれば、俺が責任をとるよ」
朔馬はそういった後で「いや、責任をとるのは銀幽か」と小さくいった。
「竹原屋に通せばいいんだな。了解だ」
◇
船人と竹原屋にいくと、楼主は「もうじき大門が開くので、できれば手短に」と見世の中に通してくれた。
「俺は同席しない方がいいか。竹原屋の前で待ってる」
船人は楼主に一声掛けて、竹原屋から出ていった。
私たちはそれを見送った後で、雅火の部屋へと向かった。
もうすぐ大門が開くせいか、見世の中は先ほどよりもそわそわしているような印象を受けた。
「いるな。雅火がいる」
雅火の部屋の前に着くと、大我は小さくいった。
朔馬は「雅火、入るぞ」と、声を掛けた。
「はいよ」
おそらく雅火も大我の匂いには気付いているはずである。それでも雅火の声は、ひどく落ち着いて響いた。
朔馬が襖を開けると、雅火はやはりわかっていたように大我だけを見つめていた。
「久しいな」
大我の声は怒っているような、挑むような、そんな声だった。
そんな大我を見つめて、雅火は大袈裟にため息をついた。
「なんだって、こんなところまで来ちまうかね」
「お前が逃げなければ、こんな場所までは来なかったさ。とにかく、山に帰るぞ! 話はそれからだ!」
大我は暴れる素振りは見せなかったが、それなりに大きな声でいった。
おそらく朔馬がここにいることで、どうにか冷静さを保っているのだろう。
「山には帰らない」
雅火は拒絶するようにいった。
「なぜだ! なぜ急に、婚約破棄などというんだ!」
「許嫁の約束なんて、あってなかったようなもんだろ」
「俺はそうは思ってないし、破棄も認めていない! いいから、山に帰るぞ! ここにいては、お前はダメになる! それに、このままでは迷惑になるぞ!」
「ここにいて迷惑なのは、あんただけだよ。私はここにいる」
「そもそもなぜ、こんな場所にいるんだ! こんなところにいる必要もないだろ!」
大我の言葉を受けて、雅火は私を見つめた。
私と朔馬は雅火が遊郭にいる理由を、槐山ではあえて口にしなかった。私たちが伝える必要もないと思ったし、本人から聞くべきだろうと思っていたためである。
「好きな人ができたんだよ。私は好きな人と会うために、ここにいるんだよ」
雅火がいうと、大我は静止した。
途端に男女の匂いがしたので、私と朔馬は静かに目を合わせて席を立とうとした。
しかし私と朔馬は大我に袴を引かれたので、立ち上がることはできなかった。振り払うことは容易だったと思う。しかしそれをしなかったのは、大我の手が震えていたからである。さらに大我は、今にも泣きそうな顔をしていたからだった。
疑っていたわけではないが、大我は本当に雅火が好きなのだろう。
私と朔馬は目を合わせて、その場に座り直した。
「私に好きな人ができて、婚約破棄をした。それで話は終わりだろ」
沈黙する大我に追い打ちをかけるように、雅火はいった。
「お前の好きな人ってのは、どこのどいつなんだ?」
「あんたがその人に何かしたら、私は絶対にあんたを許さないからね! それにあんただって、今まで散々好きにやってきたろ」
「好きにやってきたし、これからも好きにするさ! でも俺は、婚約破棄は認めない!」
「そんな婚約になんの意味があるんだい。もうあんたの相手をするのは、疲れちまったんだよ」
雅火は吐き捨てるようにいった。
「そうかよ。ここでしか会えないお前の好きな人とは、さぞ上手くいってるんだろうなぁ!」
大我が挑発的にいうと、雅火はカッと目を見開いた。
しかしそれも一瞬のことだった。
「なんとでもいえばいい。私はあんたよりも、その人の方がずっと好きなんだ。これ以上、あんたとは話したくない。出ていっておくれ」
雅火は本当に、これ以上大我と話す気はないようだった。
大我は小さく「うそだ」といった。
「お前はまだ俺を好きだろう! 俺がこんなに聞き分けがないのはそのせいだ。俺は何年でもお前を待てる! お前だってそうだったろ!」
雅火は首を振った。
「あんたのそのまっすぐな性格が好きだったよ。あんたといた季節が一番眩しかった。でも、今は辛い気持ちの方が勝っちまうんだよ。あんたに少なからず情はあるよ。でも、それだけなんだよ。私はもう、あの人のことしか考えられないんだ」
雅火はそういって、紺色のお守りを見つめた。
大我の目からは、音もなくつぅと一筋の涙がこぼれた。
「あんたのそんな姿なんて見たくないんだよ。早く、出ていっておくれ」
雅火はもう、大我を見ていなかった。
会ったばかりの私でさえ、胸が締め付けられる想いだったので雅火はその比ではないのだろう。
「大我、いこう。これ以上は雅火の仕事の邪魔になる」
仕事中の朔馬にしては、比較的やさしい声だった。
大我はそれほどまでに傷ついた顔をしていた。
「お前はその男といて、本当に幸せなのか」
大我は絞り出すようにいった。
「幸せだよ」
雅火がそういうと大我はキツネの姿になり、ウサギほどの大きさになってその場にうずくまってしまった。
私が大我を抱き上げると、大我はすがるように私の肩にその顔を押し付けた。私は反射的に大我のふわふわした背中を撫でた。
「急に訪ねて悪かったな。話し合いに応じてくれてありがとう」
雅火は窓を向いたまま、こちらに手を振った。
◇
雅火の部屋を出て竹原屋の中を歩いていくうちに、大我は私の首に巻き付いてマフラーのようになっていた。
朔馬に「苦しくない?」といわれたが、私は「大丈夫」と返答した。
苦しくはないが、それなり暑かった。しかしそれを伝えることはしなかった。大我は自分の尻尾を噛みしめて、行き場のない感情を抑えていた。私にはそれが、痛いほど伝わっていたからである。
竹原屋を出ていく際に、楼主に「もうお一方は?」と聞かれた。朔馬は無言で、私の首元を指した。楼主は大我が妖狐だったことを受け入れた様子で「あ、左様で」といった。雅火が妖狐と知っているので、それほど驚きはなかったようである。
私と朔馬は、楼主に頭を下げて見世を出た。
私たちが竹原屋を出ると、船人は「どうした?」という顔を向けた。
「話せたよ」
朔馬はいった。
「それなら、何よりだが」
それから私たちはほとんど無言のまま、九郎兵衛番所のある大門に向かって歩き始めた。
大門が見えるころ、大我は私の首からするりと離れた。
「少し独りになりたい」
地面に着地した大我は、大型犬ほどキツネの姿になった。おそらくこれが本来の姿なのだろう。
「わかった。もうすぐ蜜木も遊郭に戻ってくるだろうし、それがいいと思う。槐山には送っていくから、その辺の稲荷神社にいてくれ。その方が気も紛れるだろ」
大我は「そうだな」と力なくいうと、煙のようにその場から消えた。
「大丈夫なのか?」
船人は不安げにいった。
「雅火に振られたから、落ち込んでるんだ。でも雅火になにかするとか、他の人に迷惑をかけるようなことはしないと思う」
「そうか、それならいいが。鬼虚の件とは、関係していたか?」
船人はいった。
「大我も本人も否定していたし、無関係だと思う」
「朔馬がそういうんじゃ、そうなんだろうな」
「そっちはなにか、進展はあった?」
それから船人は、雅火の想い人である平吉の話をしてくれた。
「蜜木は平吉の話を聞きにいってくれてるのか」
「ああ、もう戻ってくるだろうな。もう一時間は過ぎてる」
世界から昼の気配が消え始め、夕方が静かに迫っていた。
「鬼虚が出るのは、いつもこのくらいの時間帯なんだろ。分かることもあるかも知れないから、一応見ておきたい」
「じゃあ、竹原屋に戻るか。お、ちょうど蜜木が帰ってきたな」
船人の視線の先には、こちらに歩いてくる蜜木がいた。
「ついさっき、大我が遊郭から去ったところだったよ」
朔馬はそういった後で、大我は鬼虚と無関係だろうと蜜木にも伝えた。
「俺は一度、鬼虚を見てから帰ろうと思う。調査を頼まれただけだから、今回はここまでかな」
「大我が無関係と分かっただけでも充分な収穫ですよ。ありがとうございました」
「平吉の件は、どうだった? 新しい収穫はあったか?」
船人がいうと、蜜木は平吉から聞いた話を私たちにも教えてくれた。
「変なもんを買わされたってヤツらは、そのまじないを買った者たちだったのか」
「そうだったのかも知れません。雅火は平吉からその懐紙を受け取っていた可能性は充分にあると思うので、いずれ回収したいと思っています」
「でも平吉と芳江の名前が書かれた懐紙だろ? 破り捨ててやしないかね?」
「雅火が文字を読めるかはわからないし、部屋に忍ばせただけの可能性もあると思う」
朔馬はいった。
「そういえばその懐紙なんですけど、一枚だけ回収できました」
蜜木はそういって、私たちに懐紙を見せた。それは手紙くらいの大きさの懐紙だった。
「これはどこで手に入れたんだ?」
船人はいった。
「平吉が声を掛けられた居酒屋で聞き込みをしている時に、同じものを売りつけられたかも知れないという者がいたんです。その男の袖の中から、この懐紙が出てきたんで証拠品として預かってきました。酔いがさめた今では、特にこのまじないを信じていないという感じでした。ただ、自分は妻帯者なので、絶対によそには見せないで欲しいとのことでした」
「つまりここに書かれてる女の名は、嫁以外の名なわけだな。実際に効果はあるのかね?」
船人はそういって朔馬を見た。その朔馬は「どうだろう?」と私を見た。
呪術に関しては、私の方が詳しいと思っているせいだろう。私は建辰坊から呪術を教えてもらっているが、詳しいのかと問われるとそうでもないように思う。
しかし懐紙にかかれた呪陣のようなものを見て、直感することはあった。
「この呪陣、発動しないと思う」
朔馬は懐紙を凝視すると「あ、本当だ」と納得した声を出した。
呪陣には一定の規則が存在するが、懐紙にかかれた陣はその条件を満たしていなかった。
「相手にこれを持たせるという条件があっても、同じでしょうか?」
「条件を満たせば発動する術もありますけど、これは発動しないと思います」
私はそういいながら、その懐紙を見つめた。
「でもなんだかこの陣は、違和感というか、気味が悪いですね」
「未完成だからかな?」
朔馬がいうように、その呪陣は未完成だった。間違った呪陣というわけでなく、あと一息でそれが完成しない。そんな気味の悪い呪陣だった。
朔馬の言葉に私は「うーん」と曖昧な返事をしつつ、その違和感を探った。
「しかし妖将官ってのは妖術だけでなく、呪術にも明るいのか。呪術なんて、どこで学ぶんだ?」
船人はいった。
「神様とか妖怪に接してると、たまに教えてくれることがあるよ」
「妖将官って感じだな。でもあれだろ。神様とか妖怪とかは気に入った人間にしか教えないんだろ。若くて顔がいいってのは、特なことしかねぇな」
「関係ないと思うけど」
「あと十年もすれば、身にしみてわかると思う」
「あと十年経っても、彼は二十五歳ですよ」
「なんだそれ、愕然とするな!」
船人はそういって、楽しげに笑った。
「あとは、同じ任務についた上官からも教えてもらうこともあるかな。蜜木もそうだっただろ?」
「そうですね。片手で足りるほどですけど」
蜜木は苦笑した。
「俺もそれほど多くはないよ。でもハロは、俺より呪術に詳しいと思う」
船人と蜜木は「ほう」と、私に視線を向けた。その視線からは「だから朔馬と肩を並べているのか」というような雰囲気があった。
私は内心「少し黙ってくれないかな」と思いつつも、朔馬が楽しげなのはうれしかった。朔馬がネノシマで気の許せる人は、あまりいない。そう感じているからだった。
銀幽さんのことは信頼していても、気を許しているかといわれるとそうでもないように思う。そもそも朔馬はネノシマでは一人で行動することが多かっただろう。だからこそ銀幽さんは朔馬が連れて歩く私のことを、面白がっているのかも知れない。
そう思った直後、私は呪陣の違和感に気がついた。
「この呪陣、相手の血判があれば発動条件を満たすかも知れません」
私が顔を上げると、三人は再び懐紙を見つめた。
「つまりこのまじないってのは、相手に血判を貰えるような間柄でないと成立しないってことか」
「血を必要とする呪術はそれなりに危険を伴うと聞いたことがあるんですが、万が一にも発動した場合はどうなりますか?」
「一時的に人の心が変わるとか、一時的に催眠状態になる程度には効果はあると思います」
私はいった。
「それは穏やかではないな。鬼虚とは無関係でも、この事案は早急に調査した方がいいだろうな」
蜜木は「そうですね」といって懐紙をしまった。
「ちょっと、引っかからないか?」
朔馬はぽつりといった。
「この懐紙ですか?」
蜜木は再び懐紙を朔馬に見せた。
「平吉に送られた幼なじみの手紙には、血判があったといってなかったか?」
見つめられた船人は、一拍置いて「ああ」と返事をした。
予想だにしない質問だったからだろう。
「別れの手紙に、血判があったらしいって話だった」
「もしその手紙に、これと同じまじないがあったら、発動条件を満たすことにはならないか?」
朔馬は懐紙を見つめた。
「でも別れの手紙に、そんなまじないをするか?」
船人はそういった後で「いや、するかもな。することもあるだろうな」といった。
私にはよくわからない理屈であるが、蜜木は深くうなずいた。
――中にはちゃんとご利益のあるお札みたいなものが入ってある
そういった雅火の声が蘇ってきた。
そしてそれは朔馬もすぐに気付いたようだった。
「雅火が持っているお守りに、芳江の手紙と平吉のまじないの懐紙があれば条件を満たしていることになるのかも知れない」
朔馬はいった。
「想い人へのまじないと、想い人から受け取った手紙か。一緒にしている可能性はあるな。そういえば雅火は最近、張見世にも出ずに前日から平吉に指名されてるって話だったな。平吉もしっかり雅火に入れ上げてるってことか」
「でもまじないについては、名前も血判も芳江のものですよね。雅火はそのまじないを持っているだけで、無関係なんですかね。先ほどもいいましたが、想い人に持たせると七日もあれば成就するという話でした。そしておそらく、今日か明日で七日になります。どうにも嫌な予感がします」
「でも雅火は、鬼虚なら幻術の養分にでもしてやるとかいってたんだろ。妖狐なら鬼虚を怖がる必要もなければ、悪影響が出るわけでもないんじゃないか」
船人がいうと、朔馬は思考を巡らせるように沈黙した。
「雅火はなぜか、鬼虚に気付いた様子はなかった。もしかして雅火自身が鬼虚の原因だから、それに気付かなかったのかも知れない」
朔馬は考えを整理するようにいった。
「雅火が芳江に化けたり、その幻術を見せる時に、芳江の血判とか二人のまじないが妙な作用を起こして、鬼虚が出現していた可能性はあるかも知れない。そして雅火は無意識にその鬼虚を取り込んで、強い術を使っているとしたら。危険なのは、術を使っている雅火と、それにかかる平吉か」
朔馬はいった。
――ここにいては、お前はダメになる!
どうしてか大我の先ほどの言葉が蘇った。
「待て待て。平吉は俺たちとすれ違いに、竹原屋へ向かったぞ」
船人の声を聞くと、朔馬は走り出した。
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