絵姿

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絵姿

「源蔵先生、うちの息子が腑抜けになっちまって飲みも食いもしねぇ。どうか診て貰えないか?」  その日、源蔵を訪ねて来たのは美作屋の主人、美濃吉だった。  美濃吉から話を聞き、源蔵は義臣と共に美作屋を訪ねた。  寝ている太七は確かに、生気がなく深い息ばかりついている。源蔵は太七の腹、胸、口の中など丁寧に診ていく。   「ご主人、奥方様、少ぅしばかり席を外して貰えるかな」  不安そうに息子の側にいる美濃吉夫妻に、穏やかに源蔵が言い、深く溜息をついている息子の太七と源蔵、義臣が部屋に残って座していた。  美濃吉夫婦が部屋を出て行くのを確認してから、源蔵が口を開く。 「さて太七。そろそろ話して貰えんかね。儂の見立てだとお主は恋の病にかかっていると思うんだがの」  太七が力なく源蔵を見た。 「恋の病? そうかも知れねぇ。俺は……俺は……あんなに美しい女を初めて見たんだ。この世の中の女を全部合わせてもあの(ひと)の美しさには敵わない」  そう言ってふらりと立ち上がり、部屋の隅に置いてある文机の引き出しから紙を取り出した。  源蔵と義臣の前で広げる。 「絵姿? これは……。この人は……。」  義臣が驚き、源蔵も絵姿に見入る。 「三浦屋の紫太夫、か」  太七は何度も頷いた。 「会いたいけど会えないから、絵姿を買ったんでさぁ。源蔵先生、紫太夫をご存じなんですか?」 「なぁに、市井の噂よ。儂ごときが遊郭に行かれる訳もないし、ましてや太夫に会える訳も無かろう。それより太七、そなた紫太夫と会うたのか?」 「先週、旦那衆の寄り合いで三間屋の大旦那に連れられて揚屋に行ったんです」 「まったく、三間屋の大旦那は仕方のない好き者じゃな。だが、紫太夫は客を取らないと噂では聞いているがの。そなた、どこで紫太夫と会ったのか」 「……。……だけ。」 「何?」 「声だけです」  小さい声で答えた太七だったが、答えたことで悔しさが募ったらしい。少し大きな声で話し始めた。 「客はどこぞの侍か分かりません。紫太夫が来ていると噂があって。俺は宴席を抜けて、そっと太夫がいると言う部屋まで行ったのですが……。太夫の客に見つかってしまって。吊し上げに合うところを、太夫が止めてくれました」 「やめておくんなんし!」 とピシャリと侍に言った一言と、襖の間から白い指先だけがちらりと見えたそうだ。 「声が。想像上の人物と思っていた紫太夫の指が見えたんですよ!」 「紫太夫かどうか、分からんのじゃないか?」 「いえ、その侍が『紫』と呼んでいたので。それから俺、声と指を思い出す度、もう、胸が苦しくて。水も喉を通らなくて。源蔵先生、若先生、俺……胸の病気で長くないんじゃないですかね?」  溜息をつく太七の背をとんとんと軽く叩き、義臣が何事かを囁いた。  途端に太七が布団から飛び起きた。 「そうですよね、若先生。その通りです。明日っからは元気に働きますよ。江戸で名を上げて一番の大棚になって、紫太夫を身受けします!」  源蔵が苦笑いして呟き、紫の絵姿を再び眺めた。 「美作屋の息子は、素直なことよの。……それにしても、紫太夫とはのぅ……」
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