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01. いまから危険なことをします!
「いまから危険なことをします!」
静かなライブハウス。三人しかいない観客が一斉に固唾をのんだ。舞台袖にいたぼくも、この包丁を持った男がなにをするのか分からなかった。しかし人前で包丁を持っているということは、そういうことをするのではないのか?
いまにも飛びだそうとしているぼくを、デリート・オブ・マシンⅡ――こと、デリートさんが止める。
いいから見てなとジェスチャーをする。
この男は何度も絶叫した。何度も笑った。ずっと舞台を往復した。
あとから聞いたのだけれど、あの包丁は「暗やみのなかのライト」なのだという。客の視線を舞台に集めるための道具なのだと。ネタの間だけは、俺だけを見ていろと――そういうことらしい。
彼のネタを漫才でいうと、笑っているときに言っていることが「フリ」で、叫んでいるフレーズが「ツッコミ」だ。ということは、漫才コンビのツッコミだったぼくは、あの鬼気迫る絶叫の役割を担っていて、彼女はおかしそうに笑っているというわけだが――昨日の彼女は、ぼくに対する怒りを露わにしていた。
「お姉ちゃんの方が好きなんでしょ。そう言えばいいじゃない。わたしじゃなくて、お姉ちゃんを目当てに来たんでしょ」
「ちっ、違うよ! あのときは、美月さんの方からからんできたというか……」
「だったら、突きのければいいじゃない」
「そういうわけにはいかないというか、なんというか……」
「ふん、知らない。今日も帰って」
――と、こんなことがあった。
包丁を持って舞台に現れた男――通称「絶叫さん」は、不思議なことに、ぼくの師匠のひとりとなった。ぼくは「絶叫さん」から、たくさんのことを教えられた。
「これ、偽物だよ。本物を持ち歩いてたら、銃刀法違反で捕まるだろ。お前、頭が悪いのか?」
「考えてみれば、そうですよね……でも、職質されたらどうするんですか?」
「ここまでは車で来てるから、職質なんてされないんだわ」
「あっ、あの方、運転手の方だったんですね」
ライブハウスの前で、高級車にもたれかかり、所在なげに煙草を吸っているひとがいたことを思いだした。
「でもベッドでは、俺がアイツの運転手だけどな」
「高校生に下ネタをぶちまけないでください!」
「いや、ぶちまけてんのは――」
「やめときな。銃刀法違反じゃなくて、セクハラで訴えられるぞ」
コンビニから帰ってきたデリートさんが、絶叫さんにビールを渡した。
「なあ、これをこいつに飲ませたら、犯罪になる?」
「当たり前でしょ。未成年の飲酒は違法なんだから」
「ところで、おれの息子はいくら飲んでも――」
「酔わなくても酔ってそうですから、酒代を節約したらどうですか!」
絶叫さんは、腹をかかえて笑う。デリートさんも、楽屋の炊事場で顔を上げて笑っている。ほかの芸人たちも、それぞれの笑い方で笑っている。
「こいつ、才能あるんちゃう? ピンやなくて漫才やりゃあいいのに」
一昨年大阪から上京したという「超天才文学少年予選落ち」さん(通称、予選落ちさん)が、スマホから顔をあげて、ぼくにとっては最大限の褒め言葉をかけてくれた。
「これには理由があるんだよ。おい、あの青春サクセスストーリーをみんなにも教えてやれ」
「イヤですよ」
「減るもんじゃないんだからさ。まあ、俺は減るもんばっかりだけど。煙草に酒に、ゴムに――」
「包丁ありましたよね? 刺しても死なない包丁……貸してくれません?」
楽屋はドッと沸き立つ。
「ほんとうに高校生なのか」と呟いたのは、舞台の上では饒舌な漫談をしているのに、舞台を降りれば寡黙になる、先月還暦を迎えたという「神秘的なおじいさん」(通称、長老)だ。
芸歴三十六年だが、いまだに「地下」でくすぶっている。
「いい加減にしてあげなよ」――と、絶叫さんをたしなめたのは、夏鈴さんだ。
大学2年生の夏鈴さん。芸人になることを夢見て、落研のない大学から飛びだし、劇場の舞台を渡り歩いているのだという。書店でバイトをして参加費を稼いで、このアットホームなライブハウスにも足繁く通っている。
隔週で日曜日に、このライブハウスの舞台に立たせてもらうようになったのだけど、いつ行ってもメンバーはあまり変わらない。少なくとも、絶叫さんだけはずっといる。ホテルからここに直行し、ネタを披露して、少しわいわいしてから、どこかのホテルへ行く生活なのだという。
ぼくをふくめて、このライブハウスにいるメンツは服装にこだわりがないらしい。絶叫さんに至っては、バリエーションがふたつくらいしかない。
しかし夏鈴さんだけは、オシャレをこころがけているらしく、このライブハウスに咲く一輪の可憐な「華」になっていた。しかも、モデルであり、ぼくの恋人の姉でもある美月さんのファンなのだという。
だから、美月さんと知り合いであることは隠している。
あと、ぼくの恋人のことは――芽依のことは、詳しく話さないようにしている。会わせることもしないと決めている。
だって、手を出されたくないから。
この世で一番愛している芽依は、ずっとぼくの彼女であってほしい。
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