江戸時代 吉原遊廓編

1/5
18人が本棚に入れています
本棚に追加
/31ページ

江戸時代 吉原遊廓編

 貞享(じょうきょう)四年。『生類憐れみの令』にて犬公方(いぬくぼう)と呼ばれた五代将軍、徳川綱吉(とくがわつなよし)の統治下、江戸の繁栄と共にそこに暮らす人々の娯楽も増えた。主に「歌舞伎」「遊郭」「相撲」が三大娯楽となる。  男女の比率で男性が多い世の中、男性の娯楽の中心となり繁栄したのは吉原遊廓である。  吉原に向かう男が登楼前に着物の襟を正して身なりを整えたとされる「衣紋坂」  衣紋坂を下るといよいよ吉原の入り口「大門」へ続く「五十間道」に入る。道沿いには「編笠茶屋」が軒を連ねていた。網笠茶屋は、登楼の際に顔を隠したい客へ編笠を貸したり、初めて吉原を訪れた人の為に案内をしていた。  道は蛇行しており、遊郭は外からでは見えない高い塀と深い堀に囲まれていた。出入り口も大門のみにすることで遊女の逃亡を防いでいたのである。  なぜ逃亡を防ぐ必要があるのか、それはここに辿り着くまでの遊女達の生い立ちにある。  彼女達がなぜ遊女になったのかと言えば、そのほとんどが身売りという形で吉原にやってきた者ばかり。貧しい親が給料の前借りと引き換えに娘を遊女屋に売り渡したのだ。  女子(おなご)を遊女屋に斡旋する女衒(ぜげん)が仲介に入り、貧しい農民らの娘を探して親を口説き、三~五両の金で売買が成立する。農村だけではない。裏長屋で生活に困窮する者、立ち行かない商屋、さらに貧しい武家までもが娘を売った。  これらの借金は全て彼女達の借金となる。前借金が安くても膨大な利子がつけられるので簡単には吉原からは出れない。吉原での日常生活でかかる生活費も彼女達の持ち出しになる。従って、年季、役十年を務めあげなければならなかった。  期待に胸を踊らせ大門をくぐる男と一夜の夢を売る遊女。心持ちは天と地ほどに分離する。  大門をくぐると仲の(なかのちょう)水道尻(すいどじり)と呼ばれる突き当たりまで、吉原を南北に貫く長い真っ直ぐな道がある。  膨大な数の行灯が煌々と夜道を照らす。  「吉原の背骨のよふな仲の町」  両側にズラリと引手茶屋や飲食店が軒を連ね、突き出るようにかかる鬼簾(おにすだれ)と花色暖簾が通りを華やかに彩った。  昼間は閑散と姿を変える色町に、今日も一人の少女が大門をくぐる。少女の手を引くのは女衒の男。男は大門から離れた場所に建つ城のように豪華絢爛(ごうかけんらん)な妓楼の前で立ち止まった。  男は三両で買った少女の器量を上玉と称し、倍の六両で妓楼に売った。妓楼の名前は『綿津屋』楼主、綿津松介(わたずまつすけ)は、幕府より遊廓大主としてこの場所の監督権を授かっている。  十歳にも満たない少女の名は亜子矢。貧しい農家の八女であった。  十歳未満で遊女屋に身売りされた幼い子供は禿(かむろ)と呼ばれ、台所の手伝いなど妓楼の雑用をしながら遊女になる為の礼儀作法を教え込まれる。その後は高級遊女のお付きとなって教育を受けた。三味線や和歌、舞など学ぶべきは多岐に渡る。   亜子矢の姉遊女に楼主が選んだのは、この妓楼の顔である花魁、(むらさき)であった。紫には、もう一人禿が付けられる。少女の名は多江(たえ)。亜子矢と同時期に妓楼に売られた娘であった。二人は同じ年の九歳。  紫の指導の元、亜子矢と多江は遊女としての修行に励んだ。また、行動、苦楽を共にし、同じ釜の飯を食うことにより友情を深めてゆく。  「失礼致し、致しんす」  紫の個室である襖を三回に分けて開く亜子矢。彼女は正座で頭を下げてから跪座(ぎざ)し、足膳を紫の前に運んだ。 「朝食をお持ち致し、しんした」 紫は顔を僅かに傾けてクスリと笑う。 「相変わらず言葉がつかえるようでありんすね」 「すっ、すんません」 正座の上に両手を置き上目遣いを紫に向ける亜子矢。 紫は咥えていた煙管を煙草盆に落とすとニヤリと口角を上げる。 「さっきからどこを見ているでありんすか?」 亜子矢は慌てて畳に視線を下げた。 「なっ、何も見てはいないであり、ありんす」 紫は善に置いた象牙の箸で蕎麦の上に乗った天ぷらを挟み上げ、亜子矢の口前に差し出した。 「ほら、大きな口を開くでありんすよ」  大きな瞳をしばたたかせる亜子矢。 「あね様」 「ほら、はよしなんし、天ぷらが箸から転げ落ちてしまうでありんす」  亜子矢は戸惑いながら口を開く。紫は彼女の口に細長い天ぷらの半分を押し込んだ。 「噛むでありんす」  言われた通りに歯で噛み天ぷらを二つに分けると、亜子矢はモグモグと咀嚼(そしゃく)する。すると生まれて初めての食感と味わいが広がった。 「どや?美味しいやろ?」  良く咀嚼してから胃に収め、亜子矢は頭を下げる。 「おら、こげなうまかモノ、見たことも食うたこともねぇだ!」 興奮からか、口調がいつもの調子に戻ってしまう。 「そやろ。海老の天ぷらでありんすよ」 紫は満足気に微笑んだ。 「亜子矢もいつか食べれるようになりんすからね」  胃の中には、まだ幸せが広がっている。  吉原遊廓には階級がある。下から禿、新造(しんぞ)、切り見世(局女郎)、部屋持ち、座敷持ち。  附廻し、呼び出し昼三(ちゅうさん)。【花魁】と呼ばれるのは昼三で最高位になる。  若い新造には楼主より部屋を与えられる場合があるが、切り見世の遊女は大部屋に衝立のみで客と共寝した。  花魁は妓楼の頂点に君臨する。花魁ともなると、立派に装飾された部屋が用意され、生活用個室、客と共寝する個室、ふた部屋が与えられる。  食事も下の者とは違う。出前なども頼め、好きなモノを食べられた。  売れない、または突出し(客を取る)間もなくの者達は禿を含め、皆、大部屋で妓楼側が用意した食事を与えられる。それは質素な食事だ。少量の煮物、漬け物に茶碗一杯の白米。遊女は身支度など何かと忙しい。あまり時間がないので、皆、箸を忙しく動かし、かけこんで白米を食べていた。  禿の亜子矢もそれは同じこと。しかし貧しい農家で育った彼女にとっては、妓楼の食事は豪華に見えた。売られる前の実家では、厳しい年貢取り立てにより白飯などは食べられない。それどころか口に食べものが入らない日が何日も続いたのだ。  亜子矢も多江も、美しい紫花魁に酷く憧れた。自分達との身なりの違いもそうだが、紫は彼女達に時には厳しく、時には優しく教え、接してくれる。稽古の合間に囲碁なども教えてくれた。  ある日、亜子矢は紫から一通の白い細長く折った文を渡された。 「亜子矢、この文を吉原神社で待つお人の元へ届けてくれでありんす。ただし誰にも見つからぬように届けるでありんすよ」  文のことは誰にも秘密だと紫は唇の前に人差し指を立てる。「しーっでありんす」 「分かりました、で、あり、ありんす」  誰にも見つからずに妓楼を抜け出す亜子矢。彼女は外に出るや否や全速で走った。  道を明るく照らす太陽は、まだ高い。  吉原神社に祀られている神様は女性の願い事を叶えてくれるとされ、遊女からの信仰が厚い。  入り口の鳥居の横に逢初桜(おうそめざくら)が、薄紅色の花弁を満開に咲かせていた。 『逢初め』とは恋い焦がれている人に初めて会うという意味がある。  亜子矢はそこで、しゃがんでいる小さな背中を見つけた。黒い総髪で髪を上で結んでいる。膝丈までの着物に前掛けを巻いていた。  どう見ても自分と同じ歳ぐらいの少年。 「あの、もし」 亜子矢は声をかけた。 振り向く少年。整った顔立ちに、あどけななさを浮きたたせている。 亜子矢は歩み寄り少年に文を差し出した。 「紫のあね様からの文で、あり、ありんす」 「紫?あね様?」 少年は目を丸くして瞬きを繰り返す。 「そんな人は存じませぬ。人違いでは?」 「いいえ、ここで待つお人に渡せと言いつけられました」 「確かに人を待っていますが……」 少年は文を受け取り開くと、間もなく顔を上げた。 「この文は好いた大人の男性に送るモノ。待ち合わせの時間と場所がしたためてありまする。そなたは文を確認しなかったのですか?」 「おらは字が読めねーだ」 「なんと、寺子屋にて習わなかったのか?」 「寺子屋に行けるのは金子(きんす)を持っているウチだべ、おらのウチには金子も暇もねがった」 「そうですか……」 少年は頭皮を掻きながら文を亜子矢に戻す。 「でも、ここには僕達の他に誰もいないし」 周囲を見回す。  その時、階段を上り向こうから駆けてくる少女の姿が見えた。 「兄上様!」  嬉しそうに片手を上げる少年。瞬間、亜子矢は驚愕した。なんと少女は多江だったのである。  二人は互いを見やった。 「亜子矢!」 「多江!」 首を傾げる少年。 「二人は知り合いなのか?」 多江が少年を見た。 「はい、兄上様、亜子矢はわたくしと同じ妓楼の禿でございまする」 「そうであったか……」 少年は亜子矢に顔を向け緩く微笑む。 「僕は雪之丞(ゆきのじょう)と申します」 多江が首を振る。 「それは成人なさった時につけると父上が決めたお名前。兄上様は沙霧です」  さ……ぎ……り。亜子矢の胸が一つトクンと波をうった。  なぜか、酷く懐かしい名前のような気がする。  沙霧はまた姿勢を低くした。 「ほら、ごらん、多江の好きな黄色き花が咲いているよ」 「まあ、ほんと!」 多江はしゃがみ込む。  亜子矢は花に目を下ろす。周りを伸びた雑草に囲まれた黄色き花弁を開いた小さな花。するとまた、言い知れない感情が胸にわいた。彼女はそれを振り払うように多江と同じ姿勢を取り花に指を差す。 「こん花は何という名前だべ?」 「さあ、知りませぬ」 顔を横に振る多江。  それを眺めていた沙霧が囁くように言った。「その花はね、おてんとうさまって名前だよ」  おてんとうさま!なぜか肩がビクリと動く。亜子矢は沈黙で花を見つめた。しかし、また囁かれた沙霧の言葉に今度は睫毛が上下した。 「さっき、僕がその花に名前をつけたんだ」  なぜに身体が反応し、胸が騒ぐのか幼き亜子矢には分からない。  多江と沙霧は武家に生まれた兄妹。しかし幕府よりお家がお取り潰しになり父と母は自害した。幼い兄妹に理由は分からない。親族により多江は女衒に売られ、沙霧は米問屋に丁稚奉公に出されたと語った。沙霧は十歳、亜子矢より一歳上になる。  大きな荷車に米俵を積み上げ多数の奉公人と共に月に二度、吉原遊廓に米を届けにやってくる。沙霧は、その時に少しだけ時間を貰い多江と神社で逢っていた。  亜子矢は沙霧の話に胸を痛める。が、自分も多江と同じように遊廓に売られた身分。やるせなき感情に唇を噛んだ。  その後、間もなくして月代(さかやき)をボサボサに伸ばした丁髷(ちょんまげ)頭に、袴をつけずに着物だけ着流した男が現れた。どう見ても浪人だ。  沙霧が亜子矢に耳打ちした。 「もしかしたら文は、あの方にじゃないかな」 「うん」 頷くと、亜子矢は浪人まで下駄を進めた。 「あの、もし」 亜子矢に顔を下ろす浪人。 「ん?拙者に何用か?」 亜子矢は文を差し上げる。 「紫あね様からの文であり、ありんす」 「そうか」 浪人は、すぐ文に手を伸ばして受け取った。 「ありがとう」  凄く優しい笑みを見せる。亜子矢は無事に文を渡せたことに安堵した。  時間はあっという間に過ぎる。多江は沙霧と次に逢う日にちと時間を約束し手を振った。 「あっ、ちょっと待て!」  去ろうとする亜子矢と多江を呼び止める沙霧。沙霧は言った。 「次は亜子矢も一緒に三人で逢おう」と。
/31ページ

最初のコメントを投稿しよう!