江戸時代 吉原遊廓編

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 妓楼に帰る途中、横を歩く亜子矢に多江は顔を向けた。 「先ほどの文は姐さんからですか?」 (しまった!)と亜子矢は思う。紫花魁に秘密と言われてたからだ。 「知らねーだ」と答える亜子矢に不満そうな表情を見せる多江。それでも亜子矢はシラをきり通す。紫花魁との約束は絶対なのだ。今度、逢う時に沙霧にも口止めしなければと考える亜子矢だった。  妓楼に着くと、もう昼の営業である「昼見世」の終わり間近であった。  昼見世とは、高級遊女を除いた遊女達が通りに面した格子越し部屋に並んで座ること。「張見世」と呼ばれている。ここで昼の客達が遊女の品定めをするのだ。  昼の客は地方から江戸に来ている諸藩の勤番武士が多い。彼らは門限が午後六時頃までの為、昼に遊びに訪れるのだ。  しかし勤番武士はお金がないので祝儀をくれないくせに威張って要求が多い。従って遊女からは嫌われている。  基本的に昼見世は客が少なく、張見世の遊女達ものんびりしていた。客がつかなければ遊女同士で花札を楽しんだり、文を書いたりしている。昼見世には祝儀をくれる上客が来ないので、客がついても遊女達は白けていた。  昼見世が終わると、遊女達は昼食を食べる。その後は自由時間、妓楼に来る小間物屋、呉服屋、貸本屋といった行商人の相手をし、夜見世に備えて身だしなみを整える。  午後六時頃になると夜見世の始まりの合図である「おふれ」と呼ばれる、妓楼の縁起棚にある鈴が鳴らされる。それと同時に、各妓楼で清掻(すががき)と呼ばれる三味線による演奏が始まる。これは芸者や新造が担当した。  妓楼はそれぞれ違う演奏で、吉原の夜を目に耳にと賑わせる。  男達は一斉に張見世に向かう。張見世には灯が灯され、並ぶ遊女達を妖艶に照らすのだ。  客がついた遊女は二階の座敷で客と対面し言葉を交わした後、すぐに一階に戻り、張見世に座る。他の客の指名も取る為だ。  遊女は同じ時間帯に複数の客の相手をしなければならないので、客は二階の廻し部屋で待たされる。待ちくたびれて怒り出す客も多い。遊女本人だけでなく新造や店の若い衆が上手く場を繋いだ。  午前零時頃「中引け」となり、妓楼の表戸が閉められる。それ以降の客は取らないという意味だ。午前ニ時頃を知らせる拍子木で「大引け」となり、それまで宴会をしていた客も遊女も皆床につき、吉原の営業は終了する。  しかし、床入り後の接待は続く。翌朝の別れまで遊女の仕事は終わらない。  花魁ともなると、呼び出しになるので見世には出ない。最高級品はタダでは見ることも許されないのだ。  花魁は特別な客だけを接待することになる。特別とは地位や財力を持つ者達だ。  吉原には細見という刊行物があり、妓楼ごとに在籍の遊女が紹介されている。細見を見て気に入った遊女が呼出しだったら、引き手茶屋で指名して手筈をとってもらう。後は酒宴を開き待てば良い。  指名された花魁は、指名客を引手茶屋まで迎えに行く。これを花魁道中と呼ぶ。  花魁道中は実に華やかなパレードになる。煌びやかなる豪華な衣装に身を包んだ花魁は、高さ約十五~十八センチの黒塗りの下駄を履き、外八文字という歩き方で、ゆっくり練り歩く。背後からは二人の禿が付き添い、大きな傘を掲げた奉公人や新造も後に続いた。  花魁道中に参加できるのは将来を有望視された禿と新造。亜子矢と多江は、紫花魁の後に付き添った。  下級遊女と違うのは、客を選ぶ選択権が花魁側にあるということ。いけ好かない客ならば「嫌でありんす」とひと言置いて帰れば良い。花魁になった時点で彼女達には「馴染み」と呼ばれる客が沢山いる。断ったとしても、どうということはないのだ。  一度目、ニ度目では、引手茶屋にて単に酒宴を共にするだけ。花魁が客を気に入れば三度目にして初めて、自分の妓楼へ客を連れて行き、夜を共にすることができる。  客は花魁に気に入られる為、蒲団一式などをプレゼントして努力した。全ては気に入られドヤ顔で花魁たち大勢を引き連れて引手茶屋から妓楼に向かう為だ。  妓楼へ向かう際、花魁達は指名客の後ろに付いて闊歩する。それが客の虚栄心を満たす。つまり「オレ様は最高級を買えるオトコなんだ!」とステータスを誇示することができるのだ。その快感の為に吉原で遊ぶ富裕層も多かった。  花魁道中後、亜子矢と多江は紫花魁の綺麗さに興奮して語り合う。 「あんなに綺麗で優しい花魁になりたい!」  亜子矢も多江も紫を目標にしたのである。  ある日、いつものように出前の足膳を運んだ亜子矢に紫は呟いた。 「この煙は、自由な場所に飛んでいけるでありんすね」  紫が煙管を手に、外に向かって吐きだす煙を目で追う亜子矢。 「あね様は自由になりたいのであり、ありんすか?」 紫が障子を閉めて亜子矢に顔を向ける。 「亜子矢かて、そうでありんしょ?」 亜子矢はおかっぱ髪を左右に振った。 「おらは飯が食いてぇだ。帰ればまた飯が食えねくなる。それは嫌だべ」 「そうでありんしたか……」 紫はフッと口元を緩ませる。 「亜子矢はまだ子供でありんすものね、わっちの気持ちは分からないでありんすね」  ふと文のことと渡した浪人を思いだす。 「あね様には好いたお方がおるだべか?」 「亜子矢」 紫は白く細い手を伸ばし、亜子矢の頬にそっと触れた。 「お前にはまだ分からぬでありんしょが、好いたお方がいると、この妓楼は地獄に変わるでありんすよ」  「あね様……」 「亜子矢、今からわっちが言うことを大人になっても心に留めるでありんす」  紫の深刻な顔に亜子矢は息を飲む。紫はこう言った。 「この先、亜子矢は必ずや花魁になりんしょ。けんどな、年季が明けるまでは男を好いてはいけないでありんす。それが遊女として生きる、また命を守る、一番大切なことでありんすよ」 「はい、あね様」  はい、と答えたが、亜子矢には紫の言葉の意味が理解できなかった。できぬままに時は過ぎてゆく。  亜子矢と多江、そして沙霧は、月に二回、神社にて楽しい一時を過ごした。 三人でいると亜子矢の笑顔は飛ぶように弾けた。  時は更に過ぎ、神社で逢う沙霧の髪型が変化する。沙霧は月代で小さい控えめな髷を結んでいた。もう、どこから見ても立派な商人だ。  沙霧は夢を語る。 「もうすぐわたしは手代になる。そして近い先、番頭になってみせる。いつか独立して店を構えるんだ」 「兄上様」 多江は潤んだ瞳で沙霧を見上げた。  また一段と背が伸びた。亜子矢も沙霧を見て笑顔を作った。 「わっちは立派な花魁になりんす」 「亜子矢……」  沙霧は何故か悲しそうに亜子矢を見つめる。 「きっと、それが妓楼で生きる為には最善なのだろう。でも……」 「でも?」 「いや、何でもない」 沙霧は亜子矢から視線を外した。 「力のないわたしが何を言っても歌舞伎のような夢物語になってしまう」 多江が大きな声を発した。 「兄上様、歌舞伎を観たのでございまするか?」 「ああ、番頭さんに連れられてこの間、観てきたよ。凄い人だった。皆、興奮していたよ」 「良いですなー」  羨ましがる多江に亜子矢は聞いた。 「歌舞伎とは何でありんすか?」 沙霧が答える。 「音楽や舞踊をする芝居だよ。江戸は歌舞伎役者が相撲と並んで大人気なんだ」  なるほど。頷く亜子矢。でも吉原から出れない自分にとっては無縁なモノ。多江が横で騒いでいたが、亜子矢はそれを無視した。    亜子矢十五歳。彼女は多江と共に「新造」の階級に上がった。  着物、反物も新調し、扇や手拭いなどの道具も用意する。費用はすべて紫花魁が負担した。  新造出の当日は、新調した着物に身を包んだ亜子矢と多江を紫花魁が連れて仲の町を歩き、顔見世をしながら各所にあいさつ回りを行う。  新造になると「水揚げ」という初体験の儀式が待っている。亜子矢は全身を貫いた痛みに悶絶した。  これが遊女の仕事……。真夜中、亜子矢と多江は抱き合って泣いた。だが、どんなに恐怖でも進むしか道はない。  客が寝ている合間に、心配した紫が襖を開く。紫には彼女達の気持ちが痛いほど理解できた。自分も、この妓楼にいる誰もが経験する道だからだ。紫は、この後のことを考えて塗り薬を二人に与えた。 「客と性行為をする前に、これを膣に塗りなんしょ」  丸い容器に入った透明な塗り薬。これが大切な膣内を守ってくれると紫は言った。  突出しとなる前日、楼主から二人に源氏名が授けられる。 亜子矢は「千桜(せんざくら)」多江は「白雲」と名付けられた。  しらぐも?また亜子矢の胸に懐かしい感情が蘇る。この思いはどこからくるのか?いくら心中を探しても見当たらない。  二人は「突出し」となり、盛大なお披露目をして初めて客を取ることになる。ここからが十年の年季の始まりだ。  将来を有望視されている二人は、楼主により特別待遇、部屋持ちからのスタートになった。  亜子矢は白雲と共に、初めて張見世に並ぶ。孔子の向こう側には男の集団。彼らは一斉に騒ぎだす。 「ほら見ろよ!あの二人は初見だぞ!」  あれは人間に向ける目ではなく置かれた商品を品定めする目だ。ギュッと唇を噛む亜子矢。  その刹那、群集の中から声が聞こえた。 「やめろ!亜子矢を多江を見るのはやめろ!」  男は前方に進み出て両手を大きく振る。 「彼女達は売り物ではない!」  亜子矢は大きく両目を開く。その男は沙霧であった。「兄上様……」横に座る白雲の啜り泣きが聞こえる。  すぐに現れた妓楼の若い衆二人が沙霧を挟んで両手を持つ。身体を激しく振り抵抗する沙霧。だが若い衆の力にはかなわない。沙霧は若い衆に引き摺られ後方に姿を消した。  派手な化粧に派手な衣装。こんな姿を沙霧にだけは見られたくなかった。緩む涙腺。滲む視界。亜子矢は眼球に力を入れて心で泣いた。  亜子矢の初客は江戸で広く商売をしている呉服屋の後取り息子。名前を「宗次郎」といった。支払いは全て父がする。父親が宗次郎の筆下ろしに亜子矢を選んだのだ。  初めての夜、宗次郎は優しく、しかしぎこちなく亜子矢を抱いた。紫に貰った薬のおかげで水揚げの時のような痛みはない。  その後、宗次郎は亜子矢に逢う為だけに妓楼に通うようになる。 「千桜、お前に好いた男はいるか?」  ある夜、酒宴の席で酌をしようと徳利(とっくり)を傾けた亜子矢に宗次郎が尋ねた。 「いいえ」 亜子矢は微笑を口元に宿して首を振る。 「そんなお人はいないでありんす」 「そうか。わたしにはいるぞ」 「どこぞの大店(おおだな)の娘様でありんすか?」 宗次郎は亜子矢を見つめた。  「それは、わたしが店を継ぐまで内緒だ。だが一つ言っておく、この気持ちは、先に何があっても変わらない。一生だ」 「そうでありんすか、そりゃえろうな惚れっぷりでありんすね。ほんでも今夜はわっちが恋人でありんすよ」  流し目を送る亜子矢。宗次郎は亜子矢の両手を掴む。そして「夜も更けた。床に入ろう」そう言って亜子矢の手を引いた。  月に二回、亜子矢、白雲、沙霧の楽しい時間は続いた。  しかしある日、約束日だというのに白雲が身体の調子を壊してしまう。白雲は「亜子矢だけでも行って兄上様が元気かどうか確認してきて欲しいでありんす」と言った。  日傘を差し、紫陽花模様(あじさいもよう)の浴衣姿の亜子矢は一人で神社に向かった。最初に逢った日のように沙霧のしゃがんだ背中が見える。亜子矢は沙霧に声をかけ、白雲のことを話した。  沙霧は心配そうな表情を浮かべる。亜子矢は「きっと、ただの風邪でありんすよ」と沙霧を安心させた。  いつも白雲を挟んで逢っていたので二人だけは気まずい。亜子矢と沙霧は沈黙で、おてんとうさまを眺める。  すると沙霧が思い出したように重ね襟から何かを取り出した。 「あの、これ」 「まあ、これは」  亜子矢の目の前に出されたのは、ツゲの(くし)である。 「給金が出たので買ってみた」 沙霧は髷を指で(つつ)きながら櫛を亜子矢の手に捩じ込む。  手の中の櫛は、沙霧の胸の体温て温かい。それと同時に亜子矢の胸にも温もりを伝えてくる。でも、この温かさにはクセがある。ドキドキして温かいのだ。  胸の痛みは、ドンドンと扉を叩くように酷くなる。亜子矢は沙霧の方を見ずに「ありがとう」と礼を言った。 「亜子矢」  名前を呼ばれ顔を向ければ、沙霧の切な気な顔が映る。 「一つだけ約束して欲しいことがあるんだ」 「何でありんすか?」 「客に心だけは売らないで欲しい」 「沙霧?」  互いに見つめ合う亜子矢と沙霧。二人の間に桜の花弁がハラハラと舞い落ちる。  沙霧は櫛を持ったままの亜子矢の手を取った。 「わたしは必ず財を築く。そして亜子矢と多江を自由にする。だから亜子矢、その日がくるまでは、せめてこの、おてんとうさまに心を置いてくれまいか」 「おてんとうさまで……ありんすか?」 「そうだ」 「それはかましません。だけんど、わっちの心には……」 「心には?何だ?」 頬を紅色に染める亜子矢。 「心には……誰かがいるでありんすよ」   「それは誰だ!」 沙霧は真剣な顔をして声を張りあげた。 「亜子矢の心には誰がいるのだ!」  ダメだ、この人。何も気づいてへん。 「沙霧ばかりズルいでありんすよ。わっちは沙霧の心が知りたいでありんす!」 「わっ、わたしは……」 沙霧は亜子矢の手を放し、自分の胸へとあてる。 「ずっと前から好いた女子(おなご)がいる」 「だが!」 下を向く沙霧。 「今のわたしには力がない。だから自信がない!」 「そうでありんすか……」 亜子矢はいったん唇を噛んでから開いた。 「ならば沙霧の心も、おてんとうさまに置いてくんなし。わっちの心と一緒に……」  翌日、客を大門まで送ると、亜子矢は部屋で寝ている白雲の部屋の襖を開いた。 「白雲、具合は大丈夫でありんすか?」  布団の中、白雲は亜子矢を見て微笑んだ。身体を起こそうとする白雲を慌てて亜子矢が止める。 「まだ寝ていないといけないでありんす」  亜子矢は重ね襟から櫛を取り出した。 「昨日、沙霧から貰うたでありんすよ。わっちの分と白雲の分。これは白雲の櫛でありんす」 「まあ、何と綺麗な櫛でありんしょ!」 白雲は、櫛に彫られた桜を指先でなぞる。 「兄上様……」 「それとね、沙霧は約束してくれたでありんす」 「約束?」 頷く亜子矢。 「いつか財を成して、白雲とわっちを自由にしてくれるでありんすよ」 「そんなことを……」  白雲の瞳が揺れて、涙が枕に糸を引く。 「そんな日が来るのならば、わっちは頑張れるでありんすよ」 亜子矢も瞳を潤ませた。 「ほんに希望ができたでありんす。いつか、沙霧と白雲とわっち、三人で暮らしたいでありんす」 「ホンマに……」 白雲はそこまで言いかけて言葉を止める。 「ほんでも、わっちは二人の邪魔でありゃせん?」 「邪魔?」 「そう、邪魔」  置くこと数分。二人は顔を見合わせて「クスリ」と笑った。
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