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「理想」は誰もが持ちえるもので、それは人物であったり、イメージであったり、何かに感化された自分自身の憧れの果てである。
それが生きがいになり、向上心に繋がり、何かの1歩を踏み出すきっかけになる。
誰もが持ち得るのでなく、誰もがもっていなくてはならない代物なのである。
では、「恋愛」は。
恋愛もまた誰かに憧れる行為だ。
自分の中で「恋」を自覚してしまえば、あとは心に囚われるままにひたすら相手の事を思う。例えば容姿、例えば行動、もしかしたら価値観。何かに感銘を受けてその相手は自分の中での1番に昇華される。
「理想」と「恋愛」は酷く似ている。けれど絶対に相容れないものである。憧れと恋心には決定的な違いが存在する。どちらの思いがどれだけ強いかとかそういう問題ではない。
ただ単に恋心は憧れにはならず、憧れは恋頃にななれない。シンプルな話である、その2つは決して交わることはない。
これは月に「理想」を感じた少女と、少女に「恋」
をした少年の話である。
腰までのびている草をかきわけながら僕らは目的地へと向かう。足元にはときたま大粒の石が転がっており、足元に気をつけながら暗がりを進む。
まるで人の手が関与していない場所。忘れ去られたと言っても過言ではない。もちろん道などあるわけがないので月の光にあてられ黄金色に輝く草原を地図なしで進むしかないわけである。
いつからか僕達はこの草原をかきわけ、その先にある場所へ行くことが月に1度の約束となっていた。
「もうすぐだ」
目の前に木々が並んでいるのが見え、草の数もへってきた。
「そうみたいね」
彼女がおもむろに口を開いた。消え入るような声だったけれど、静寂が広がるこの空間では十分だった。
彼女はいつも僕の後ろについて歩く。僕が作った道を歩く形になるのでさほど苦ではないだろう。せいぜい足元の石につまずかないように注意すればいい。
彼女は生まれつき体が弱いらしい。らしい、というのはそれ以上深入りすることを恐れたから。
今こうして家を出て歩いているのも本来であればご法度だ。
これは彼女の我儘である。1ヶ月に1回、月が完璧に満ちる日の夜、こうして僕は彼女を連れ去りある場所へと案内をする。
そういう契約だ。僕も彼女も相応のリスクを抱え、こんな辺境の地へと夜な夜な足を運ぶ。彼女の家はここら一帯を牛耳っている名家である。その一家のご令嬢で、おまけに生まれつき病弱。だから彼女は大切に育てられてきた。いつ悪化するかも分からない彼女の体のことを思ってか基本家の中に拘束され続けてきた。それが彼女にとっては耐え難い程の苦痛だったのだろう。
ただの農民である僕にはその苦痛も分からない。
もしこうして密会していることがバレたら金輪際彼女と関われないどこか下手をしたら僕の首が飛ぶ。
本当に愚かな男だと思う。身の程知らずの恋心1つで自分の人生を棒にふるのかもしれないのに。
「着いた」
草原の迷路をぬけた先には、木々に囲まれた大きな湖が鎮座している。月光が水面に反射して、僕らを照らす。人の手を介されていないであろうその湖の水はまるで純粋無垢であり、何者でさえも写し出してしまうような透明感があった。
周りの木々すらも中央の湖を映えさせるために林立しているようで、つまりはそれほどの存在感がそれにはあった。
かと言って僕らはこの湖を見に来たわけではない。日付が変わる狭間、この場所ではちょうど湖の真上に月が登ってくる。それを見るためにわざわざこんな場所まで彼女は家を抜け出し、ここまで僕に連れてこさせる。月なんてどこでも見れるというのに。
「綺麗、」
彼女は月を見上げながらそう呟く。
月にみとれている彼女の傍らに静かに座る。
彼女はいつも立って月を見る。その方が少しでも月に近づいてる気がしていいのだと、いつの日かの夜そう答えていた。何故そこまでして彼女が月に固執するのかは分からない。ただここに来るとずっと彼女は月を見上げている。
「寒くなってきたね」
ふと、寂しくなって思ったことを口に出してみた。吐いた息は別に白に染まるわけでもなく、ただ空気の一部と成り下がる。
彼女の返答なぞ期待していない。
月を見上げる彼女を尻目に僕は湖をのぞき込む。澄んだ水面には月光が反射する全ての範囲の世界を写し出し、僕たちの世界とは別の世界を水の中に生み出しているようだった。
その世界には左右逆の僕も居て、退屈した目で僕を見つめている。
(そんな顔するなよ、、)
鏡、なんてものは僕の家には無い。別に泥にまみれた顔を毎朝眺めたいわけではないけれど、時々自分の顔を見る度ぽつりと僅かな自己嫌悪が浮かぶ。
僕はこのもう1つの世界が案外好きである。見上げないと見えなくて、手を伸ばしても届かない月よりも決して触れることは出来ないけれど、僕と同じ目線にありひょっとすれば手が掴めそうなぐらいの仮初の世界のほうが。
どちらも真に触れることができないというのなら僕はある意味の理想を近くで感じていたかった。
彼女は違うようだが。
「あなたは、月を見ないの」
不意に頭上から問いかけられた。彼女を見あげてみてもやはり彼女は月を見ている。
さながら暇つぶしといったところうだろうか。
「見るさ」
「嘘、あなたはいつもそればかり見ている」
月ばかりをを見ている彼女が、いつもの行動を知っていることに少し驚く。
「案外いいものだよ」
彼女は僕の答えに満足いかなかったのか、しばらく何も言わなかった。
静まり返った空間には、風に揺られる木々のざわめきだけがうるさく響いて、少し間隔があいている僕らの隙間にも風が通り抜けていく。
唐突に、彼女は足元にある小石を拾い上げ、湖に向かって投げて見せた。
その小石は水面で2回跳ねた後ゆっくりと水の底めがけて沈んで行った。水面には大きな波紋が2個ほどでき、湖の表面に写し出された世界がぐらりと歪む。
「小石1つでこんなにも不安定になる世界なんて見ていてなにがおもろしいのかしら」
正直驚いた、彼女が僕に向けてここまで明確な「何か」を向けたの初めてである。まして、月を見上げることをやめてまで。
「別に、面白いってわけじゃないよ。僕にはこれで十分だってだけ」
彼女はそう、とさして興味が無さそうに返事をした後また月を見上げた。
僕に腹がたったのだろうか、なんて考えながら再び目の前に広がる景色へと目を向ける。
「決して手が届かないものに向かって必死に手を伸ばし続ける醜い姿をあなたは滑稽だと思う?」
月を見上げたままの彼女から再び問いが投げかけられた。
毎度毎度、僕を試すかのように僕の答えを待ちながら月を見続ける。
「少なくとも、僕なんかよりはよっぽど勇敢だよ。僕には理想を追い続ける度胸すらない」
今だって彼女を見上げることすらできていない。
「あなたが卑下する必要はないじゃない」
「卑下もするさ、これだけの美しいものに囲まれてしまえば」
思わず皮肉混じりの言葉となってしまった。
失言を自覚し耳に熱がこもる。いつもそうだ、逃げてばかりの人生だから、逃げまでの道を作るのだけは上手くなる。無自覚のうちに出る言葉は、無意識のうちに人を遠ざける。
彼女は僕の丸まった背中を見て何を思っているだろうか。
「確かにそうね」
正直な彼女の言葉に心が揺れる。彼女は自分を強く持っている。身体的には弱いかもしれないが、病気に苦しみながらも僕なんかよりずっと強い意志を持ち続けている。そんな所に僕は引かれているのだから。
しばらく、沈黙が続いた。耳をすませなくても聞こえてくる虫の音は、僕らの空白を埋めるにはもってこいであった。ずっとこんな時間が続けばいい、だなんて傲慢な考えは何度振り払っても消えないようだ。
「私は月になりたい」
突然彼女はその空白をかっさらう。本当に唐突に告げられた彼女の告白は、臆病な僕さえ彼女を見上げさせた。
「それはまた、なんで?」
「綺麗だから、じゃだめかしら」
彼女にしては捻りのない答えである。加えて幼稚だ。けれど憧れる理由など簡潔な方がいい。
彼女が月を見る理由、それは彼女自身が月を憧憬の対象にしているから。
それに向かって彼女はずっと手を伸ばしている、届かないことなど最初からわかっていながら。
「気づけば夢中になっていたわ、窓越しにそれを見てしまってからずっと。小さな窓から降り注ぐ僅かな月光は私を魅了するには十分だった」
目を細め、過去を懐かしむかのような優しい声音でたんたんと彼女はただ言葉を紡ぐ。
「お家の屋根に登っても、町で1番高い塔に行っても、決して近づくことはできなかった。空に貼り付けられた絵画のような景色にただ見とれるだけ。それってきっと虚しいことなのでしょう?」
悲しみ混じりの声は僕になんとも言えない緊迫感を覚えさせた。
僕だってあれがどこにあるのかなんて分からない。
けれど、届かないと分かっても尚憧れ続ける彼女はやはり強い人である。
「憧れなんて全部がその類じゃないか、君だけじゃない」
彼女はただ黙っていた。彼女は僕に悩みを告白した。多分、誰にもいわず1人隠し続けた胸の内。禁忌にもなりうるそれを言うのにどれほどの勇気が言っただろうか。それは計り知れないけれど、それなら僕も応えなければならない。
おもむろに僕は立ち上がって、遠くを見上げる彼女の真正面にたって見せた。月から目をはなし、少し驚いたように僕を見る。
彼女の黒い瞳は全てを見抜いているように澄んでいて、けれどその奥には大きな悲しみや寂寥のようなものが息を潜めているようだった。その瞳の美しさに呑まれそうになる。
「君が月になるというのなら、僕は、君の代わりにずっと月を見ていよう」
驚いたように目を見開く彼女を尚も見つめ返しながら言葉を続ける。
「老いても、生まれ変わって人でない何かになっても、必ず僕は君を見あげ続けたい」
ずっと言いたかったこと、ずっと思っていたこと。きっかけがないとこうして彼女を見ることすら敵わない僕だから、ずっと湖を見るしかできなかった僕だから、たった4文字にこの思いを乗せるなんてのはできなかった。
「、、私の方からあなたは見えないかもしれないのに?」
「それでもいいんだ。今もこれからも僕の自己満足の範疇でいい、君だってそうだろう?」
人が人に恋い焦がれるのだってきっと同じだ。容姿であったり、垣間見えた優しさであったり、あるいは家柄だとか。なにかに惹かれてその人に恋心を抱いて、その恋心を愛だと証明するために僕らはもがくのだろう。だから、きっと僕も。
「そうかもしれないわね」
僅かに微笑みを浮かべながらそういう彼女を見ると、やはり僕の感情は紛いないものであるのだと確信する。
彼女が月にどうしようもなく執着するほどに、僕も彼女にどうしようもなく思いを馳せてしまっている。
醜いなんて思うはずがない、彼女も僕も無謀な思いを抱いている。
だから僕は彼女が月から目を離し、僕の目を見てくれたことがたまらなく嬉しかった。
「見上げるだけでいいなんて無欲な人」
「君も大概だろう」
楽しげに微笑みながらそれもそうねと答えた後、彼女はもう一度空を見上げる。月はもうすっかり僕らの頭上にはおらず、西の空に向かって沈んでいき、代わりに夜明けを連れてこさせようとしている。それは僕らの別れも意味する。
「そろそろ戻りましょう」
「そうだね」
しばらく見ることが無くなる湖に別れを告げ、少し先を歩く彼女を小走りで追いかける。ふとすると、彼女が突然振り向く。
「『何故』あなたは月を見ないの?」
踏み込んだ、ともすれば少し遠慮がちな質問である。この問いに対する答えは僕の中には明確に存在する。だが、別れを惜しんでか僕の口は直感的に思いついた答えではなく、僕の奥深くにある心情を切り取って言葉にしてみせた。
「月を見るためには上を見ないといけないだろ。月を見るために上を向いたら、きっと僕の目線は君を追ってしまう。」
一瞬何を言っているのか分からないと言うような顔をした彼女だったが、僕がいいたかったことを理解したのか口角をあげて笑って見せた。月は傾いてしまって湖や僕を照らさなくなったけれど、代わりにえこひいきするみたいに、彼女だけが月明かりに照らされていた。
「やっぱり、あなたはおかしな人」
まるで自然な笑顔、無意識のうちに生まれたそれは月なんかよりもずっと美しいものだった、何も言えなくなってしまうほどに。
彼女の後ろに揺れる木々たちは彼女に賞賛を送る群衆であり、彼女が憧れる月の光でさえも彼女を照らすスポットライトになりさがる。
磐石の布陣すらひっくり返してしまうような、ともすれば一息で消えてしまいそうな儚さが今の彼女にはあったのだ。
薄く塗った口紅は尚彼女の笑顔を引き立たせていて、
風になびく黒髪に刺さった金色の簪は、月明かりに照らされてキラキラと光っている。
細く華奢な体に纏った露草色の着物も、
しゃんと背筋が伸びた上品な佇まいも、
綺麗な瞳も、
空いた口を手で隠すような仕草や、
無邪気な笑い声でさえも、
彼女の全てが。
僕に嫌でも理解させてくる。
僕に嫌でも再認識させてくる。
こちらに向かって微笑みをうかべる彼女は、絶対的に、どうしようもないほどに、『綺麗』だった。
胸板まで届くほどの草をかき分けながら男はどこかへと向かい歩を進めていた。
目的にするような場所など、どこにも見当たらない荒野に男は一人歩いており、まるで何度も行ったことある道であるかのように、手際よく草をかき分けて進んでいく。
やがて中央に湖が鎮座する広場へとたどり着く。
湖は木々に囲まれており、まるで秘境のような場所である。湖のほとりまで歩き、男は空に向かって手を伸ばす。今宵は新月、闇に包まれた夜空には遠く離れた場所でじゃれ合う星々の僅かな輝きがぽつりぽつりと見えるだけ。しかもその輝きは男を照らすに至らない。
月光さえ存在しない午後二十三時、男はただ彼の頭上を見上げている。
なぜ見上げているのか、何を見るためなのか、それを知るものは男と姿を隠した月のみ。
誰にも見られず、この地で一人男はずっと月を見上げ続けるのだろう。
誰かとの約束か、あるいは単なる憧れか、あるいは過去の恋心故か。
愚かにも見えるその姿勢こそが、人々が憧れる恋そのものであり、彼は一生それに囚われていくのだろう。
男の愛は永遠に証明されないことなどとっくに分かっているのに。
月に憧れ続けた彼女のように。
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