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小学三年生の夏、クラスに転校生がやって来た。
「渡辺明日香です。よろしくお願いします」
ちょっと猫背で、長い髪を三つ編みに結って左右に垂らしたその女の子はおどおどした様子で頭を下げた。こんな時期に転校生なんて珍しいね、とクラスがざわつく。最初のうちはクラスのみんなも彼女によく話しかけていたが、渡辺さんはとても大人しい子であまり会話は弾まなかったように思う。かくいう私も彼女とはほとんど会話する機会もなくそのまま夏休みを迎えた。
「暑いなぁ、もぉ!」
友達と一緒にプールに出掛けた帰り道、私はひとり小さな公園の前を歩いていた。耳をつんざくような蝉の鳴き声が暑さに拍車をかける。帰ったら何か冷たいものでも飲もうアイスでもいいな、そんなことを考えながらふと公園の中を覗くとベンチに同い年ぐらいの女の子が座っているのが見えた。
(ん? あれって……)
公園のベンチに座っていたのは転校生の渡辺さん。そのまま通り過ぎようか少し迷ったが何となく声をかけてみることにした。
「こんにちは! こんなとこで何してるの?」
この公園にはたいした遊具もなく老人が散歩で訪れるぐらいで、あまり子供は寄り付かない。
「あ……ええと、斉藤さん?」
驚いた様子で私を見上げる彼女の腕には一体の古びた人形が抱かれていた。私はその人形を見てギクリとする。おかっぱ頭で着物姿の市松人形? とかいうやつだ。普通ケースに入って家の中で飾られているような人形なので外で見るとひどく違和感がある。
「あ、お人形さん。……可愛いね」
何と言っていいかわからずそう言って褒めると渡辺さんはとても嬉しそうに微笑んだ。
「ありがと。アタシのお友達なの」
この渡辺さんっていう子は自分のことを〝アタシ〟と呼ぶ。ちょっと変わってるよね、とみんな言っていた。
「へぇ、そうなんだ」
「アスカちゃんって言うんだよ」
「え、明日香って自分の名前でしょ?」
「アタシは漢字の明日香、この子はカタカナのアスカちゃんなの」
変なの、と思いつつ私は彼女の隣に座った。
「ふぅん、そうなんだ。ねぇ、いつもここで遊んでるの?」
「うん、この時間はお家にいちゃいけないから外にいるの」
暗い目で彼女はそう呟く。何か家庭の事情があるのだろう。
「でも公園にひとりでいても退屈じゃない?」
そう聞いてみると彼女は大きく首を横に振った。
「ううん。だってアタシ、ひとりじゃないもん。アスカちゃんが一緒だから。ほら、アスカちゃんも斉藤さんにご挨拶して?」
渡辺さんは人形をこちらに向け、ほんの少し低い声で『わたくし、アスカと申します』と言って人形の頭をペコリと下げた。冷静に考えればずいぶんと不気味な光景なのだがその時の私は単に面白い子だな、としか思わなかった。
「はい、こんにちは。私は斉藤加奈です。よろしくね」
その日以来、私は渡辺さんと人形の〝アスカちゃん〟を何度も公園で見かけた。彼女はいつも熱心に人形と話しており、こちらから話しかけることもあればそのまま通りすぎることもあった。人形と会話している時の彼女はとても人形相手に話しているとは思えないほど普通の会話をしており少し怖く感じることもあったのを覚えている。
夏休みが終わり学校が始まってしまえば今までどおり、私はいつものグループで遊んでいたし渡辺さんも自分から私に話しかけてくることはなかった。そうこうしているうちに今度は私が転校することになってしまい、それきり小学校時代の友人とも疎遠になっている。後日、風の噂で渡辺明日香の家は再婚で母親の連れ子だった彼女は虐待されていたらしいと耳にしたが真偽のほどはわからない。
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