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2 厄虫騒ぎ ①
定期検診で病院から帰宅した水曜日の夕方、緑のクーパがガレージに停まった時に両親が普段使っている白いワンボックスがなかった。
「あれ、どこか行ってる」
幸紘はポケットから取り出したスマートフォンを見る。普段なら夕食の最中か、もう終わっている時間だった。
「そういや昼過ぎに二人で出かけてったな」
「搬入の時?」
「搬入の前。そのすぐ後で冷蔵庫とレンジが来たんで、ちょうどよかったんだ」
運転席から降りた神様はごそごそと後部座席を探って白いビニール袋を取り出す。中には水を入れてボタンを押したら三〇秒から一分くらいで湯が沸くタイプのポットが入っていた。
「分離式にした。洗える方がいいだろ?」
「そうですね。ありがとうございます」
「窓開いてるよな? 俺、いつも通りそっちから入るし」
「それなんですがね」
幸紘はバタンと車の扉を閉めて、少しズレた眼鏡のツルを人差し指で押し上げた。
「今日は朝から小雨が降ってたんで、窓の鍵を閉めてきてしまったんですよ。足下も濡れてるし、玄関から入りませんか? 姿、隠せるんでしょ?」
「まあな」
「加奈子も塾の日なんで、塾の送迎車で帰ってくるまでたぶん今は誰もいないと思います。一応誰かと鉢合わせることも考えて姿は消してください。それで俺が扉開けて先に入りますから、後からついてきて」
神様は軽く頷きドアを閉めると鍵を掛けた。
二人で駐車場から自宅へ向かう。境内の中を歩く際にすでに降り止んだ雨を含んだ砂利が湿った音を立てた。
玄関の扉に二つある鍵穴をそれぞれ解除する。自宅へ入る前に郵便受けから薄っぺらい広告が覗いていることが気になって、それを引っ張り出す。扶桑ヶ原の造成地やそこに建てられた建て売りの売り込みチラシだ。神様が背後からひょいっとのぞき見た。
「何?」
「扶桑ヶ原の造成地のCMですね。バイト先ですか?」
「その地図の場所、結構前の現場だ。まだ人が入ってないんだな」
「この場所のチラシ、先々月くらいに初めて見ましたけど、値下がった価格以外はこれと全部同じですよ。周辺僻地からの移住はあっても、市全体の人口は横ばいか微増らしいですからね。公的に人口施策をてこ入れいれしないと減る一方って話を会社でよく聞きますよ」
幸紘はちらしを小さく折りたたんでポケットへ突っ込むと自宅ドアを開ける。ただいま、とは言わなかった。
「お帰り」
ひょいっとダイニングから加奈子が顔を見せる。幸紘は長い前髪の内で眉間に皺を刻んだ。
「塾は?」
「休み。体調悪かったから今日は学校を早退したの」
幸紘は背後に控えた神様にそれとなく視線を送る。
「そういや冷蔵庫運んでるとき、二階に気配あったわ」
神様はこそっと言った。その声は見えない加奈子には聞こえていないはずだった。
「何? お兄ちゃん、誰かいるの?」
加奈子は大きな目を細めてじっと幸紘と、その背後を注視した。見えているはずはないとは思うのだが、幸紘はそれとなく神様を加奈子の視線から遮る位置に立った。
「何で?」
「最近家の中、なんか変じゃない? 今日も部屋で寝てたときにさ、ラップ音っていうか、足音? とにかくなんかがうろうろしている気配とか階段を往復する音を何回も聞いてさ。でも扉開けてみても誰もいなくて。お父さんもお母さんもその時は出かけちゃってたし。これって心霊現象ってやつだよね?」
加奈子は恐れ半分、好奇心半分の様子で言った。
幸紘はもう一度、それとなく神様に視線を向ける。神様はあさっての方向に視線をそらした。その後でちらっと加奈子の方を向くと、すいっと幸紘の背後から飛び出す。空間を泳ぐように軽やかに加奈子の背後へ回った。
「かっ……!」
声を掛けようとして幸紘は口を押さえて言葉を飲み込む。ここで『神様』などと声を掛けようものなら、加奈子が食いついてくるのは間違いない。オカルトおたくのネットで仕入れた玉石混合の解釈を、爛々とした目で延々と聞かされるのは正直面倒くさかった。
「な、何?」
加奈子はやはり見えていない。その背後で神様の目が鋭く細められる。
ぱしゃん。
彼の白く柔らかな指が目にもとまらない早さで加奈子の首筋をかすめる。幸紘は眼鏡を少しずらした。神様が指の間に栗ほどの大きさの脳みそ顔がついたトンボ様の『それ』を掴んでいる姿がフレーム外に見えた。
食べるのかな、と幸紘は様子を見ていたが、神様は険しい目つきのまま手の内で握り潰す。彼の指の間からはバレンタインや大祭ではよく見た黒い陽炎が立ち上って消えた。
「お兄ちゃんが帰ってきたからかな。ちょっと楽になった、かも」
加奈子は首筋に触れて軽く笑う。楽になったとすればさっき神様が『それ』を駆除したからである。幸紘は中指を眼鏡のツルに当てて押し上げた。
「気のせいだ。親父と母さんは?」
「八幡宮の叔父さんのところ」
「叔父さんの?」
「なんかややこしい話が来てるみたいよ。お父さんもお母さんも困った顔して叔父さんに会いに行ってくるって慌てて出ていったけど」
「ふうん」
加奈子の背後にいた神様がするっと離れて泳ぐように階段を上っていったので幸紘も後につく。階段の下から加奈子が声を掛けた。
「お兄ちゃん、ご飯は?」
「いらない」
幸紘はひらひらと右手を挙げてぶっきらぼうに言うと、振り向かずに階段を上っていった。
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