2 厄虫騒ぎ ①

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 三階まで上ると幸紘の部屋にはすでに天井灯がついていて、扉の隙間から白い光が漏れていた。部屋の中では早速神様が冷凍庫をあけていた。レンジで作るタイプの二.五人前大盛りスパゲティーを取り出し、外装をあけて電子レンジに入れる。  幸紘はクローゼットを開けて肩に引っかけただけの作業着をハンガーに掛ける。他を着替えるのは億劫だった。風呂に入れば着替えることになる。今はそのままの姿で作業机の椅子に座った。 「加奈子は、神様が見えてるんですか?」 「俺だけじゃねえよ。たぶんユキが見る大部分は見ようと思えばあいつ薄ぼんやり見えるぜ。その程度の『力』はある、ハズ」  神様はセットしたレンジが回るのを眺めて言った。 「目が悪いだけだ。ピントがあってない」 「目は、いいはずですよ」 「視『力』の話じゃない」  レンジから目を離した神様は幸紘に近づく。その顔を見上げる幸紘の前髪をそっとかき分け、アンダーリムタイプのスクエアの黒縁眼鏡をすいっと奪い取ると、悪戯っぽく自分で掛けた。普段まったく装飾のない顔にワンポイントが表れて幸紘は神様の新たな一面に真顔になって目を瞬かせる。 「これ、度はほとんど入ってないんだよな」 「ブルーライトカットを入れてるんです。OA仕事なんで」 「でも眼鏡の本当の目的はそれじゃない。ユキはこれで敢えてその目が見られる幽世の世界からピントを少しずらしてる。だろ?」  眼鏡の隙間から、悪戯っぽく艶めいた上目遣いで神様は幸紘を見た。 「なんでもお見通しですね」 「ずっと見てきたからな」 「生まれる前からとか言ってましたもんね」 「眼鏡の『まじない』の始まりも知ってるぜ。光子がかけたんだ。最初はおもちゃのメガネだったっけ?」 「俺が『それ』を見るようになった頃ですね。眼鏡を掛けてる間は変なものに関わられても気のせい気のせいとやり過ごしなさいって。そうやってるうちに眼鏡を掛けてる間は見えすぎなくなったんです。母さん、神職の才能あったんですか?」 「ユキや加奈子みたいな能力のことなら、もちろんないよ。そりゃまあお前らの親だし、神社の娘だから、そうじゃない一般人より多少は素地はあるかもしれないけど」 「そういうものですか?」 「神域や、そこに住まう神なんかと一緒にあるだけでも感応力はあがるもんだしな。それでも関わり方が甘いから、程度としては毛が生えたようなもんだ。素質が違う。だが能力があろうとなかろうと誰でもやれる程度の『まじない』はある」 「『まじない』?」 「『呪』を行使するための作法だ。呪術、という言い方もする」 「例えば?」 「名前。存在に形を与え、場を固定し、干渉するための『まじない』。一番簡単で、一番身近で、一番根源的で、最も強い」 「だから神様は教えてくれないんですね」 「名を知りたければ知恵比べ、って昔から言うんだよ。その次が祈りとか願い。お前が俺によく言うやつ」 「神様は優しいので」 「そういう弱みにつけこむのはどうかと俺は思うけどな。祈りとか願いは言うなれば強い欲望を代償にする『まじない』だ。俺よりも瀬織津媛の方が霊験は灼か(あらたか)だぜ」 「聞いてくれますか?」 「さあ。あいつ人間よりも強欲だから。ちょっとやそっとの欲じゃ足りねえ、って言ってくるかもしれないけどな。これは強い欲望の力を神に捧げて、何らかの形に還元してもらう『まじない』だ。奇跡とか、成就とかな。あとは約束」 「約束も?」 「俺が、守り切れなかったもの。完璧に守り通すって言ったのに、ユキを怪我させた」 「大祭の時の? あれ、俺を安心させるためだと思ってましたよ」 「それが約束の霊験。事象とは不確定なもんだ。だから誰だって不安になる。約束は交わす相手に対して言霊で予想される未来を線引きして形作り、本来不確定なはずの事象をある程度安定させる『まじない』なんだ。光子は「子供にとっては偉大な存在であるお母さんが確約するから、その眼鏡掛けてたら大丈夫なんだ」って自分の存在と眼鏡ってアイテム使って、お前の不安を限定固定したんだ」 「あの雑といい加減の化身の母さんが?」 「性格については俺はなんとも言わねえけど、親心はあるんだぜ。だからユキの状態を理解できないなりに、困ってることには心を痛めてた」 「俺に対して? いつも加奈子の味方してるようなあの人が?」 「ユキが光子を薄情だって思うのは当然だろうよ。ユキと加奈子と比べた場合、仲が良いのは明らか加奈子の方だからさ。でもそれだって別にユキが嫌いとか相性の問題とかじゃねえよ。加奈子が女だからだ。それも人間社会の尺度で見たら強くなけりゃ狩られるカテゴリーに属してる側の。女親は自分が生きてきた社会で、自分の属する側の価値観をよく知ってる。その中で子が安心に暮らしていけるように、より不利な方に気をかけるのは多産系じゃない生き物の生存戦略だ。理屈や感情じゃない」  神様は眼鏡を外すと幸紘の顔にかけ直してやる。長い前髪をくしゃっとかきあげて、黒緑の瞳が幸紘の琥珀の瞳をのぞき込んだ。 「加奈子が、ユキみたいに眼鏡をしないといけないほど見えすぎてたら、光子は同じ事を二人にしたさ。その程度には二人とも愛してんだ」  黒緑の瞳をまっすぐに向けて、美しく優しい眼差しで神様は幸紘を見つめて頭を撫でる。その手の感触が気持ちよくて幸紘は少しの間だけ目を閉じた。 「神様は、色々見えているんですね」 「長く生きてるんでな」  乱れた幸紘の前髪を軽く手直しして神様は電子レンジの前へ移動する。中をのぞき込んでオレンジ色に照らされて良い匂いがしてきたパスタを眺めた。 「幸いにして加奈子はそういう能力のピントがあってない。解像度が悪いんだ。ど近眼みたいな程度かな。今のところ『陽』気については突出しているが、総合的な呪の『力』に関してはユキより全然低いからだ。でも神社の娘だからまったく見えてないわけじゃない。なんかいる、くらいはわかってるだろうよ。大体はピントが合う前に、持ち前の『陽』の気で燃やしちまうから気づきもしない。見えるってことは呪の『力』が上がるって事だし、それに伴って『陽』の気の能力も上がっちまうから、結局ほとんどのものは一生見えねえだろうな」 「そういや神様も苦いって言ってたチョコ、加奈子が作ったやつだったんですけど、媛が食って『陽』の気がどうとかって、呻いてましたね」  しれっと幸紘が言うと、神様はしかめっ面で振り返った。
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