2 厄虫騒ぎ ④

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2 厄虫騒ぎ ④

 一五時を過ぎてコーヒーを飲もうと幸紘は冷蔵庫を開けたが、二リットルのペットボトルの中には水がほとんど無かった。 「あ、昨日スーパーへ買い物行ったときに親父のコーヒーに気を取られて水を買い忘れてましたね」 「水道で良いじゃん」 「じゃあちょっと、ペットボトルに入れてきますね」 「いてら」  神様は昨日スーパーで買ってきたファッション雑誌に視線を向けたままひらひらと手を振る。その間にも彼の服はころころ変わった。どうやら衣装込みで変化の『力』なのだ、と幸紘は理解する。だったらパジャマだけを幸紘から借り受ける理由が謎だった。  部屋を出て、薄暗がりに眼鏡をずらすと『それ』らが様子を伺ってかさかさと動いている気配を幸紘は感じた。足下に視線をやると蜘蛛のような多足がついた目玉の『それ』が幸紘の足の上を踏みつけて見上げてくる。相変わらず造形的には決して気持ちのいいものではない。ただ彼らが自分の命を助けようとしてくれたとか、慕っているかもしれないなどと神様から聞かされたせいか、そんな姿でも多少愛着が幸紘にも沸いてきた、ような気がした。 「でも、まとわりつかれるのは苦手なんだ、マジで」  幸紘は眼鏡を上げてさっさと二階へ向かう。『それ』らは幸紘の背中を追った。 「お兄ちゃん」  二階まで幸紘が階段を降りたところで部屋の扉が開いた。声を潜めて加奈子がドアの影から幸紘を呼ぶと、幸紘の周りにいた『それ』らがわっと蜘蛛の子を散らしたように薄暗がりに身を隠した。 「何?」 「今、一階に行かない方がいいよ。理事長が来てる」 「お前の学校の? なんで?」 「知らない」  加奈子は唇を尖らせて首を振った。  彼女の通う私立宝山学園は扶桑ヶ原町の幹線道路沿いにある。実験的な取り組みやカリキュラムが組まれていることで有名で、文武両道に秀でた人物を多数輩出しており国公立の大学進学率も高い。その理事会には資産家や学識経験者など、宝山市出身の各業界では著名な人々が名を連ねており、彼らの支援による運営資金の規模の大きさも有名だった。 「また親父、理事会に誘われてんのかな。加奈子が入学する前もそういうのあったし」 「なんで?」 「うちがそれなりに有名な神社だからだろ? そこの宮司が理事会にいたら、なにかと学校のCMに役立ちそうじゃないか」  だが浩三はかたくなに理事会の参加へを断っていたし、ともすれば理事会の人間とも接触を避けていた。一般的にさほど忙しくないと思われている宗教関係者であるが、淵上神社に関して言えば平日でも参拝客はそれなりにある。地元商工会に頼まれて厄払いツアーみたいなものを組まれたりもするからだ。参拝客をお出迎えするための境内の掃き清めも拝殿での儀式ごと一切も今は浩三一人で担っていた。その上で地域誌の取材にも応え、地元活性化のイベントを企画運営し、村の会計や氏子総代会の手配、山や川の見回りや役所への陳情などの役もこなす。一学校法人の会議室であーでもないこーでもないと益体もない議論に終始して、椅子にふんぞり返っている暇などない。 「あたし、理事長苦手」  部屋を出てきた加奈子が階段の下をのぞき込むようにしてひそと心の内を吐露する。 「学校でたまに出会うんだけど、人の話を聞かないっていうか、決めつけるっていうか。強引なんだよね」 「まんま親父じゃん」 「それはお兄ちゃんに対してだけでしょ。あたしにはやさしいもん」 「不公平だ」 「お兄ちゃんキモオタだから、お父さんも更生させようと思ったら厳しくもなるわよ」 「更生……って」 「とにかくさ、理事長はお父さんと違うの。なんかこう、嫌な感じなの。あたしが早退した日もいきなり各教室を見て回るとかしてさ。とにかく空気読まないで勝手に決めちゃう感じなのよ。えらっそーで」 「大変だな」  幸紘は感情のこもらない口調で言った。学校機関やそこに所属する集団や特異な人間関係などとは縁遠い生活をしてきたので、内実が実感として理解できない。当然同情も共感もできなかった。 「まだいるんだな」  幸紘は加奈子とともに階下をのぞき込む。浩三や光子とは違う野太い男の声が五月蠅い。何を話しているのかは聞き取れない。雑音のひどい声だった。 「一時間以上はいるわね。途中からお父さんの声きこえなくなって、おっさんの独壇場」 「きっつ」 「ほんと。見つかったら矛先がこちらに来そうだから逃げてんの。お兄ちゃんなんて半ニートだから、何言われるかわかったもんじゃないわよ」 「ニートじゃねえよ。六年目の社会人だっつーの」  幸紘はギロリと長い前髪と眼鏡の隙間から加奈子を睨みつける。その際、加奈子の首元にいつぞや見た脳みそ顔のトンボを見つけた。 「加奈子!」  とっさに幸紘は加奈子の腕をとった。『それ』がすいっと加奈子の背後を飛んでいく。眼鏡を取り去った幸紘が見回すと階段の下からじわじわと数を増やして同じ形の『それ』らの集合体が階上へ集まってくるところだった。 「や、ばっ!」  禍々しい気配に幸紘は眼鏡ごと加奈子の腕を掴み、階段を上る。『それ』らはダミ声に似た羽音を響かせて二人を追った。 「お兄ちゃん! 何? どうしたの?」 「いいから走れ。早く! 部屋に入れ!」  扉を開けて先に加奈子を押し入れ、幸紘も急いで中に入り、後ろ手で扉を閉めた。 「お。お帰り」
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