2 厄虫騒ぎ ④

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 神様が雑誌を手にしたまま二人を見て軽く手を上げる。加奈子は大きな目を開き、神様と幸紘の顔を交互に見た。顔全面に「わけがわからない」と描いてある。当然だ。昨日の買い物から帰ってきた時、神様は姿を消していたので幸紘は一人だったのである。そこから理事長以外の訪問者はない。そのはずなのに目の前に見知らぬ中年が居る。よりによって人が苦手で、リアルの友達なんて一人も居ないことで家族には周知されている幸紘の部屋に。驚かないわけがなかった。 「お、お兄ちゃん、この、この人、誰? どっから?」 「説明は後でする。あいつです。あの厄虫が大量に発生しています」  扉を何かががつ、がつ、とぶつかる音がしていた。加奈子は扉からとっさに離れ、幸紘は背にした扉をチラリと見た。 「『それ』と違って入ってこれないんですね」 「『厄』系は許してねえからな。俺の意識のある間は入ってこれねえよ」 「このままほっといても大丈夫なんですか?」 「この部屋以外、家の中が汚染されたままになるけど」 「なんとかなりませんか? お願いします」  幸紘の懇願に神様は明らかに面倒くさいという顔をして首筋を撫でた。 「しゃーねーなぁ」  神様はふわぁとあくびを一つしてゆっくり立ち上がる。幸紘にそれとなく後ろに下がるように指示を出して、扉を隙間程度開けた。 「うわ~……えげつな」  幸紘も隙間を覗く。壁にも天井にも廊下にも階段にも手すりにも、目につくところにはトンボ様の『それ』がいる。集合恐怖症の幸紘は思わず悲鳴が出てしまった。 「ひぃっ!!」 「なんなの?」  加奈子も隙間から覗く。彼女の目には概ねいつもと同じ家の中の風景だったが、それでも何か感じるものはあるようだった。 「なんだろう。なんか、いる、んだよ、ね? 変な音が聞こえる。虫? なんかモヤモヤしてる。キモチワル」 「今見えるのはその程度か」  神様はにやにやと加奈子を見て、扉を閉めた。 「シンプルに数が多い。一番手っ取り早いのは媛を連れてくることだな。喜んで食うと思う」 「あんな危険なものを大祭以外で本殿から出せませんよ」 「……だよな。酔っ払った勢いで今度こそ欲を根こそぎやられて、遠野家が一家心中の羽目になる。間違いなく」  神様は部屋に置いてあったポットを手に取ると、冷蔵庫の中からペットボトルに入ったお茶を取り出した。 「俺はこういうの専門じゃないから、作法とかその辺りは目を瞑れよ」 「目を瞑るもなにも、今からやろうとしていることが想像もつきません」 「ムシムシホイホイ」 「商標名。そんな便利なものが?」 「作んだよ。この家の屋根を吹き飛ばすつもりならあれを俺が物理で倒すのは簡単だけど、そういうわけにはいかないだろ。だから一網打尽にして、媛のところに降ろす」 「どうやって?」 「説明は後で。ユキ」  ポットに半分ほどお茶を入れると、神様は幸紘の肩を掴んだ。 「ちょっと、耳貸して」  神様は掴んだ肩にぐいっと力を入れて、少し背伸びをする。身長差的にはそのくらいで幸紘の耳と神様の口が同じ高さになった。  ぷつっ。 「っつ!」  耳に聞こえた皮膚の裂ける音とかすかな痛みに幸紘は顔をしかめた。  神様が幸紘の耳朶に噛みついていた。その肩越しに加奈子が真っ赤な顔をして指さしているのが幸紘の目に入る。幸紘自身は今何が起こっているのかは、人との接触経験の浅さからくる混乱の中で、よくわかっていなかった。  神様の唇が、幸紘の耳朶を嬲っている。鼓膜に直接届く濡れた音に、ぬるりとした生々しい粘膜の感覚に、頭が処理しきれない行為のためにこわばる幸紘の全身が震えて腰が砕けそうになった。 「っ……ぁ」  はしたない声が甘く低く漏れそうになるのを加奈子の手前なので兄のプライドにかけて幸紘は押し殺した。  じゅっとひときわ大きな音とともに傷口から漏れる血を強く吸い上げて神様が離れる。その唇についた幸紘の血がルージュのように色白の肌に映えて、幸紘に鮮烈な印象を与えた。神様は幸紘の耳にちり紙をあてがうと、口に含んだ血と唾液ごとポットの中へべっと吐き出した。 「セ、セクハラ!」  加奈子が非難した先は神様だったが、ベッドの上にあった枕を投げつけられたのは幸紘だった。 「なんで俺が責められるわけ?」 「破廉恥! 年頃の娘の前でなんてことしてんのよ」 「左手はこんなだし、右手は大切な商売道具だ。怪我させるわけにはいかねえんだから、血が採れる場所っつったら耳か唇ぐらいしかねえだろうが。それとも唇使ったオニイチャンの濃密な血だらけファーストキスを見たかったか?」 「最低! 何なのこの人!」  人ではない。  なんだか後の説明が非常にややこしそうな展開に、心の中でそう呟いて幸紘は口元を手で押さえたまま黙ってしまう。  耳が熱かった。耳だけではない。首から上が幸紘はすごく熱かった。さすが神様は幸紘が生まれる前から見てきたと言うだけあって、これまでファーストキスの経験が無いことまで知られている。それ以上の経験など未だもってのほかなどお見通しであるはずで、とにかくいろんな側面で幸紘は恥ずかしかった。
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