3 言葉で心に嘘をつきたくないから ①

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3 言葉で心に嘘をつきたくないから ①

 週明けの午前五時前。  携帯のアラームはいつの間にか止まっていたのに、幸紘はすうっと夢の深淵から浮き上がるように目を覚ます。カーテンの隙間から天文薄明の空にうっすらと霧がかかるのが見えた。  無意識に半分あけてしまったスペースに幸紘が伸ばした手が広々と冷えたシーツを撫でる。神様と一緒にベッドで寝たのは四日ほどでしかない。なのに今は、その当たり前だったはずの朝が一日千秋の侘しさを感じさせる。起き抜けの眠気など吹き飛んでしまった。  結局、昨日は窓から飛び出したまま神様は戻ってこなかった。もともとは鏡池が彼の戻るべき場所なので、部屋に戻ってこないことは神様からしてみれば何の問題もない。けれども幸紘はなんだかイライラ、もやもやしてなかなか眠れなかった。  幸紘はもそもそと起きて制服兼作業服に着替え、眼鏡を掛けながら、どうやって運転しようかなどと考える。メインの鍵は神様に貸しっぱなしなのは事実で、このまま神様が戻ってこなければ運転しなくてはならない。車を買って初めて、スペアのキーを机の引き出しから幸紘は引っ張り出した。  いつのまにか、生活の中に神様が居るのが当たり前になっていた。一人で眠るベッドが広々としているのも、掛け布団から外れたシーツが冷たいのも、そんなものは神様に出会う前の幸紘にしてみればあたりまえだ。神様が運転してくれるとわかるまでは自分でなんとかしようなどとも考えていた。 「……甘えてんな」  幸紘は自嘲して神様が部屋に運び入れた冷蔵庫を開ける。中にあった朝食代わりのカロリーメイトを取り出し肩掛けカバンに詰めた。  部屋の外に出ると足下でこつんと神様の作った厄虫ホイホイ、もとい新品の瞬間湯沸かしポットが当たった。幸紘はポットを手に取り中身を覗く。心なしか少し濁っている気がするお茶が入っていた。  神様が去り、一五分ほどしたところで客は帰っていった。何やら急用が彼を呼び出したようだった。客が去った後、普段温厚な浩三が玄関先の建具が錆びるのではないかと思われるほどの粗塩を降り回っていた。厄災を招く邪気を払うという塩の効果がどれほどのものかはしれないが、少なくともポットの方は効果絶大で、その頃にはほとんどすべての厄虫が回収されていた。  この中に、神様の唾液が入っている。耳を嬲られた時の状況を思い出して幸紘はポットの液面を眺めて生唾を飲み込む。神様に噛まれた耳朶に貼られたバンドエイドの中で、小さな傷がずくずくと熱を帯びて疼いた。 「……俺の血も入ってんだよな」  結果的に何の罪もない『それ』までも誘われてしまったのか、部屋はおろか廊下でもほぼ見かけなかった。幸紘は心の中で手を合わせた。  ポットを持ってダイニングへ降りる。光子の姿はまだない。ダイニングのテーブルの上で先週の頭から置きっぱなしになっている神職養成講座案内のパンフレットが目に入った。 「なんだ、今日は遅いじゃないか」  ダイニングの隣のリビングから浩三に声を掛けられる。彼はいつもの袴でも作務衣でも無く、パジャマのままだ。気だるげにソファーに座っていた。 「開店休業中だっていうのに、父さんはいつもより早いじゃない。どうしたのさ」 「ちょっと、眠れなくてな」  浩三はふうと疲れた息を吐いた。  幸紘はシンクにポットの中身を捨てる。神様の唾液の効果の残滓で本殿の中と繋がられても困るし、自分の血が入っているのもなんだか不衛生で、幸紘は右手を泡だらけにして四苦八苦しながら念入りに洗剤で洗った。 「なあ、幸紘。本当に、お前はこの神社を継ぐつもりはないか?」  浩三は幸紘の背中に尋ねる。これまでなら即答で「そうだ」と答えるところだったが、今日は返事をしなかった。それをどう捉えたのか、浩三はぽそりと、いつもの彼にはらしくなく、弱気な声色で話し始めた。 「叔父さんがな……」 「八幡宮の?」 「ああ。瑞淵八幡宮をうちに合祀(ごうし)しようか、考えているらしい」 「うちが社格借りてるのに?」  泡だらけの手を止めて幸紘は浩三に振り返った。浩三はソファに身を預けたまま横目で幸紘を見ていた。 「まあ、社格制度は伝統としては残っているが、実質的には戦後に廃止されたからな。でも合祀した場合は縁起を継承する関係上、社格はうちのものだったってことになるだろうな」  幸紘はまたシンクに向き直る。  八幡神はそのことを知っているのだろうか。瑞淵八幡宮の主神であるところの彼を幸紘は想う。いくら出向先が潤沢だと言っても、出向元が倒産ともなると心穏やかではないだろう。  幸紘はポットの洗剤を強い水流で流して水を止めた。 「年々近隣の住民は高齢化して、氏子は減る一方だ。そんな状態では翔君の代わりの人を雇うなんてのはできん。この地域の時流なら仕方ないのかもしれん」  既視感のある言葉に幸紘は浩三を見る。 「うちは合祀でもかまわんと思う」 「本当に?」 「まだ俺が元気なうちはお世話をするさ。だがむこうの人たちからすれば、昔から自分たちが大切にしてきた神社だ。廃社(はいしゃ)するのも、分社扱いにしていたうちに格が移されるのも気持ちのいいものじゃないだろうな。それに今は翔君だって片手間にしかやれてない上に、その後といったらお前たちの従姉妹の彩美ちゃん一人しかいない」 「加奈子に倣って宝山学園を今年狙ってんでしょ?」 「仲が良いからな、昔から。加奈子が大学に行ったら、それを追いかけて間違いなく村を出るだろう」 「なら加奈子ごと引き留めたらいいじゃないか。俺の時みたいにさ」 「あの子たちは女の子だ。引き留めたところで神職は継げん。母さんも外に出すつもりだしな」 「そんなこと言ってたらこの少子化のご時世、どこの神社も廃れ放題じゃないか。最近は女宮司さんも珍しくないでしょ。宮司じゃないけど、瑞淵八幡宮はお祖母ちゃんが実質管理してるわけだし」 「日々の継続性を担保できん。お義母さんはもうそういう年齢じゃない。だが子を為すことのできる身では、血の穢れの間は神域には入れん。特にうちは主神が女神だからな。穢れは神を狂わせる恐れがある。それでは仕事にならん。女の子は結婚して、子供を産んで、育てる。それが神の定めた生物としての本文だ。子が七つを越えるまではみだりに神域へやることもできん。子を、喰われてしまうからな」  七歳以下はまだ眷属の柵が残っているから神に出会うと引かれやすいと、神様が教えてくれたのを幸紘は思い出す。だから淵上神社では祭りの時以外、七歳以下の子供は随神門よりうちへは基本入ってはいけないことになっている。  この普通の人が眉唾だと笑い飛ばす迷信を、金の瞳を持つ幸紘は否定できなかった。 「でもあの子たちが小学生以上の年齢の息子連れて帰ってくるのを待つにしても、彼女らの次世代が戻ってくることを期待するにしても、その前にあの集落から人が居なくなるんじゃない?」 「だからお前に期待しているんだ、幸紘」  浩三はらしくない静かな口調で言った。
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