3 言葉で心に嘘をつきたくないから ③

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3 言葉で心に嘘をつきたくないから ③

 この日曜日の淵上神社の駐車場にはいつもの休日以上に車が停まっていて、駐車場整備の係員が忙しなく車列を整理していた。  綺麗に敷き直された石畳を多くの参拝客が踏みしめて神域を参拝する。  社務所前には長い列ができていた。構成は八割方男性だ。社務所の中で笑顔を振りまくのは加奈子とその友達で、お守りや札に並んで大祭で彼女らが舞っていた時の限定ブロマイドが結構な高値にも関わらず飛ぶように売れていた。  普段はあまり人が寄りつかない小さな祠にすら今日は小銭の大盤振る舞いだ。元から小さな賽銭箱は最小単位の銀貨で投入口付近まで満ちていた。  八幡宮の側の蜜柑の木は厄落としを願う人々の神籤(みくじ)がくくりつけられてずいぶん早い満開の花のようになっていた。ただし中の神様は不在である。  拝殿には烏帽子を身につけ、渋い小豆色の狩衣に身を包んだ神職が本殿に向かって座り、二〇分おきに手元の和紙に書かれた祝詞を間違えないように神妙に唱えていた。参拝者の多くは彼の後ろで鈴を鳴らし、設置された賽銭箱にお金を投じて手を合わせる。神職の袴は松葉色をしていた。 「その左腕は締まんねえな、新人」 「誰の所為だと……」  幸紘は本殿に向かって浩三から渡されていた祝詞の紙を一通り唱えた後にぼそっと返す。ギプスでガッチガチに固めた左腕は狩衣の袖に隠されていた。 「お前が勝手に割り込んできただけだろう」  本殿の中から瀬織津媛がいけしゃあしゃあと言った。 「我を失って俺を襲おうとしたり、神様に傷を負わせてたのは誰ですか。俺は運営スタッフの一人として仲裁に入っただけです。すぐにそうやって自分の責任を人に転嫁する」  参拝者には瀬織津媛の声は聞こえないので、幸紘は自分の声が彼らに気づかれぬよう小さく返す。幣殿には特殊な結界でもあるのか、それでも瀬織津媛には届いていた。 「だって俺、この神社の主だし。ここの正義は俺だ」 「ああ、そうですねえ!」  思わず声を荒げそうになるのを、幸紘は咳払いで誤魔化す。再び浩三から渡された祝詞の和紙を広げ、唱えている風を装った。 「ここの主だって言うなら瀬織津媛もしっかり人々のお祈りを聞いてくださいよ。八幡さんも神様も留守の今、ここの運営責任者は媛なんですから」 「その言葉、そっくりそのままお前に返すぞ、小僧。浩三がいないんだから、袴の色が初心者マークでもしっかり宮司のフリだけやっておけよ。加奈子に比べてお前の仕事はずいぶん楽なんだから」 「楽じゃないですよ。ご依頼があれば個別に祓いも祝詞もやります」 「こんな休日のごった返したなかで、急にお祓い頼むような奴がいるかよ。必然的にお前の仕事はここで俺を敬ってるように見せるだけだろ?」 「違います。祓いの見立ては昔から親父よりも俺の仕事です」 「見えるだけだろうが。結局産土清め(うぶすなきよめ)も『厄』祓いの儀式も浩三がやるんじゃ、稼ぎは出ないんだぜ、ルーキー」  瀬織津媛が揶揄して笑う。さすがに年の功なのか、ああ言えばこう返してくる瀬織津媛に、幸紘は返す言葉を失って軽く息を吐いた。  昨日、大祭で浮き上がってしまった全石畳の修繕が終わった。そうして今日から参拝受け入れを開始したのだが、一番それを待ち望んでいた浩三は初日だというのにいなかった。  彼は先週の中頃から瑞淵八幡宮と淵上神社を掛け持ちしていた。今は同じ市内とはいえ、もともとは違う村である。距離的に一日にどちらにも所属するという訳にはいかない。そこで彼は自分の子供たちに目をつけた。加奈子とその友達には結構な額のバイト代で、幸紘にはいずれ後を継ぐ長男なのだからと言う一方的な理由で、休日参拝の運営させることにしたのだ。その間、両親は瑞淵八幡宮に向かい、荒れた境内と御社殿の整備と復興計画に精を出していた。八幡神が不在なのもそのためだった。  長い祝詞をまた一通り詠み終えてから幸紘は尋ねた。 「瀬織津媛は、八幡さんから瑞淵八幡宮の件、聞いてるんですよね。飲み会で」 「俺には関係の無い話だが、なかなか興味深かったな」 「関係ありませんか?」 「ないな。もともと人の願いによって顕現したのなら、人が居なくなれば消えるだけ。それは八幡神とて同じ事だが、あの御仁は応神天皇という人の魂が縁起だから、人の営みに感情移入してしまうんだろうな。本体が京都にあるのだから、そこに返るだけの話だろうに、この土地に未練した爺さんがあそこまで酔っ払うのを久しぶりに見た。元来酔いに強い御仁だから愉快だったな」 「よっぽど腹立ってるんですね」 「神とは強い力を持つ故に、感情にまかせて人に干渉してはならないなんてくそ真面目な禁忌(きんき)で自らを縛っているからなおさらだ。時代の趨勢だから仕方ない仕方ないとは口に出してはいたが、はっ、口に出す奴ほどそうは思っておらんものだ」 「そういうものですか?」 「本当に時代の趨勢を受け入れる者は、俺のように潔く消える定めも受け入れる。本来諦観とはそういうものよ。それを敢えて言葉にしてしまうのは自分の未練を断ち切れぬのを言霊の力を借りて断ち切ろうとするからだ。本当は心にもないことを飲み込もうとあがいておるのよ。そうでもして八幡神が未練を始末しようとしているのは、人の世界との縁を持つほど神と人の境に存在する使命と愛情の二律背反に苦しむからよな。ところで小僧よ。お前の神様の姿が見えないな」 「鏡池で寝てます。ショートスリーパーって言ってましたけど、さすがに最近なんか疲れてるみたいで。今日は俺がこっちに居るんで、池で一日寝て過ごすらしいです」 「あ、なる」 「何か知ってるんですか?」  幸紘は身を正して恭しく拝殿に頭を何度か下げる。ちらっと背後を見ると昼時のせいか、参拝客の数は減っていた。社務所の列も解消されている。見れば受付の扉が閉まっていて、カーテンが引かれていた。 「昼休憩かな」  幸紘は拝殿の外に向けて何度か頭を下げると、正面扉を一旦閉めた。
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