3 言葉で心に嘘をつきたくないから ③

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 拝殿の隅に置いた鞄から幸紘はごそごそと電子式の煙草を取り出す。普通の紙煙草は浩三からの借り物である狩衣を傷つけかねないからだ。 「おいこら不良息子。俺にも一本よこせ」 「その言葉、そっくりそのまま返しますよ、媛。ですが電子煙草はこれしかないです」 「いつものやつも持ってるだろ? 知ってんだぞ」 「勝手に人の鞄の中身を覗かない」 「俺はこの社の主だ。今はウンエイセキニンシャだぞ。好きにできる権利がある」 「はいはい」  幸紘は鞄を最後ごそごそと探って、いつも吸っている紙巻き煙草を取り出す。幣殿を通り、御扉へ続く階段に幸紘は腰を下ろした。すぐに本殿の扉が音もなく開き、中から白い手が出てくる。その手が箱ごと奪い去ろうとするのを幸紘は器用にかわして、一本だけ与えてやった。  煙草を得た手がすいっと本殿の内に戻る。白い障子にぽっと炎の煌めきが浮かんで消える。すぐに嗅ぎ慣れた煙草の匂いが中から漂ってきた。 「お前にも吸うのを許可してやるぞ」 「もう吸ってます」  幸紘は電子煙草を軽くかざして口に咥えた。 「八幡神が言うには、瑞淵八幡宮周辺の土地買収はどうやら難航しているそうだ」  瀬織津媛はしばらくしてから、ふうっと紫煙を吐き出して下世話じみた言い方をした。 「なんで?」  幸紘は電子煙草を一吸いしてから尋ねる。 「あそこの地内に、お前の神様が身分を借りているやつの廃屋がある」 「聞きました。家主は家と一緒に土に返ってるって」 「瑞淵八幡宮の氏子衆がな、その廃屋の主が同意せんなら、我々も交渉の席には着かん、と難癖をつけているようだ」 「はぁ? 一生話し合いの席になんてつけないでしょう。本人もうこの世にいないんだし」 「そうさ。ところが死体を誰も確認していない。それどころか同姓同名同住所の奴が、最近扶桑ヶ原町内でどうやら日雇い仕事しているらしいときてる。まさか死んでるなんて思いも寄らないだろう」 「あ……お察し」  神様である。  彼は幸紘を会社に送り出すと、そのまま車に乗って市街地へ向かっていた。迎えに来るとぎゅうぎゅうに食料品が詰められた買い物袋がおいてあったから、てっきり食料を買い出しに出ているのだろうと幸紘は思っていた。昼間何をしているのかは聞いたことがなかったが仕事をするためだったのだ。それは疲れるはずだった。 「八幡神によると、身分の借り元は生前、今にも弾ける腫れ物のような扱いだったらしいな。だからこそ村人は関わりが薄いのを良いことに勝手に偶像を作り出した。毛嫌いしていた乱暴者に、怒らせたら怖いだの、もともとは人殺しだの、根も葉もないような人物像を貼り付ける。言葉は霊という形を作り、噂は一人で歩き出す。そういうものだ」 「噂もなにも、実際神様という実体が動き回ってるんですけどね。家に踏み込んだら一発でわかるからくりだと思いますけど」 「人とは都合のいい生き物だ。死んでるなんてのは薄々気づいてるのに、恐ろしい言霊の形を与えてしまったせいで誰も家にまで行って触れようとはしない」  瀬織津媛によると、神様が身分を借りている松崎某は瑞淵八幡宮よりも山奥の、電灯もないような山道を進んだ先にあるらしい。本当に人家があるかどうかも怪しい山道である。普通の人間なら躊躇って当然だった。そういう忌避感を抱いているところにきて、市街地にいるらしいと聞けば関係者はまずそちらを当たるのが人情というものである。  開発業者は同意をとるために街で神様を探しているのだが、神様は文字通り神出鬼没で捕まらないという。捕まらなければ誰も交渉の席に着かず、力尽くで押し通そうとすると浩三が市議会議員と裏で手を回して市の開発課経由で圧をかけているのだという。忙しい復興作業のついでに浩三がそんな事までやっているという事実は素直に幸紘を驚かせた。 「氏子衆を巻き込んでこうなると、向こうも今一歩踏み込むに踏み込めなくなるし、八幡宮の現宮司もおいそれ土地権利書に判など押せん」 「神様はそれも見越して動いてるんですか? 俺には何も言わないから」 「さてな」  幸紘は電子煙草を咥え、瀬織津媛を見せる。うっすらと、格子障子に揺れる紫煙とゆったりと煙草を手にした媛の影が映っていた。 「神には役目がある」 「役目?」 「正義と言ってもいい。それぞれの名、立場、縁起……そういったものから生まれた各の責務だ。例えば八幡神の正義とは氏子を守護し厄を祓って勝利と目標の達成をもたらすこと。神としての『力』はその為に行使される」 「むやみやたらと祟ってるわけじゃないんですね」 「当たり前だ。そういう点において、お前の神様はこの土地の土地神であるからこそ、豊かな水源とそれによって支えられる生態系を守っていく責務がある」 「だから開発を邪魔してるのか」 「ま、公には、な。ただあいつ自身は我らの誰よりも長く人とともにあった。その分、土地だけで無くそこに生きる人の生活や、長く人と過ごしてきた時間や思い出のようなものに対して、本心では思うところはあるだろう。この神社がなくなっても仕方ないなどといつも口にしておるけれど、背負ってきた月日の重さが口で言うほど簡単に何もかもを諦めさせてはくれぬものだ」  瀬織津媛が紫煙を燻らせてくっくと笑う。幸紘は電子煙草を軽く吸った。
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