3 言葉で心に嘘をつきたくないから ③

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「ひ、媛……?」 「なるほど。これは快活だ。浩三が生まれたときから二四年かけてゆっくりじっくりかけてきた『まじない』を、お前の神様は一瞬で解いてしまったわけか。浩三が知ったらどんな顔をするだろうな。教えてやりてぇ」  格子戸の奥でドタンバタンと音を立てて瀬織津媛が長々と笑い続ける。きっと腹を抱えているのだろうと幸紘は思った。 「でも……だったら具体的にどうしていこうってのは、わからないんですけどね……」  瀬織津媛の引きつけに近い笑いが収まったあとで、幸紘は誰にいうともなくため息とともに吐露した。 「これって、媛が幼い頃に俺の欲を喰ってしまったせいでは?」 「なんでもかんでも俺の所為にするな」  ちらっと幸紘は本殿に視線をやる。格子の隙間から瀬織津媛の白い手が伸びてきてもう一本煙草を要求した。幸紘が一本引き出した煙草の箱を差し出すと、今度は箱ごとひったくられた。  すぐに本殿の格子戸の隙間から紫煙が漏れ出てくる。 「今の状態はむしろお前の神様が浩三の『まじない』を解いたせいだ。付ける名前も、込められた願いも、躾として何度も何度も繰り返される家庭や地域の文化継承行為も、それらは全て子に継がれる『まじない』よ。親の考える幸せのレールに自動的に進ませるためのな。そのことに無自覚に乗れるのは実は人間にとっては幸いだ。自由と選択が多すぎる未来に対する迷いや悩みや葛藤などから解脱できる。生きることに対する無限自己責任もだ。辛いことは親のせいにできるのだからな。だがお前の神様はそのレールを神威で解呪して引き抜いてしまったのよ」 「どうして?」 「さあな。あいつの考えていることは俺にはよくわからん。だが結果としてお前は自分の欲に従って、自分で人生のレールを引かねばならなくなったのだ。確かにお前の欲が薄いのは俺のせいかもしれん。だからいざ欲に従えと言われたとて、すぐには道が見えてこないのもそのせいといえばそうかもしれん」 「ほら、媛のせいじゃないですか」 「だがお前が俺に欲を食われたままの状態で、今もあるとは思うなよ」  格子の隙間がもう少し広めに開いて、中から拳ほどの目玉のついた細長い触手がべろりとでてくる。その目を前に、幸紘は二〇年染みついた主神への恐怖から、反射的に体を強ばらせて動けなくなる。  目玉はにんまりと歪み、睨め、品定めするように幸紘の周りをゆらゆらと浮遊した。 「ふふ。初生(うぶ)の欲は貴重さはあるが青くて正直美味くはない。やはり後に芽吹く欲の方がよい感じに熟れるものよな」  瀬織津媛はうっとりと、ゆったりと言って、格子戸の中でじゅるりと涎を滴らせる音をたてた。 「俺の……欲?」 「そうさ。お前自身は幼いときに俺に欲を食われたせいで、普通の奴よりも芽吹きは鈍い。だからまだ気づいていないようだがな。確実にお前の中に生まれ、日に日に育っている欲がある。今はまだお前の中でとどまっているが、人の欲とはそのうち必ず『器』より溢れるものだ。その時はここに来るといい。なに、お前の『器』は俺のおかげで未成熟で底が浅い。すぐに欲は『厄』となる。俺が美味しく引き受けてやるよ」  目玉の下方ががぱり、と開き、蛇のような舌をちろりと伸ばす。それは幸紘の頬すれすれを薙いで、するりと本殿の中へ戻っていった。
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