3 言葉で心に嘘をつきたくないから ④

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3 言葉で心に嘘をつきたくないから ④

 その日は休日だというのに日の出と同じくらいに幸紘は目覚めた。山の端を茜色に染める明けの陽光がカーテンの隙間から部屋の天井を白く照らす。  ベッドの隣が冷たかった。右手を支えに幸紘が体を少し起こすと、神様はすでに起きていて、薄暗がりの部屋の中、一糸まとわぬ姿で背を向けて立っていた。  背骨、肩、腰、足……すべてが滑らかな曲線で構成されている白い肌。それが強く握られる拳から湧き上がってくる力をため込んで、少しずつ硬く締まった筋肉の陰影を描き出す。項から背骨に沿った一筋の曲線を中心として、左右に完全対称となった筋肉が盛り上がる。薄くはなく細すぎもしないしっかりとした腰回りから、きゅっとつり上がった尻臀のラインが、官能的でありながら神々しい。まさに神の肉体と呼ぶにふさわしい芸術品を前に幸紘は言葉を失って見惚れた。  ぱしゃん。  白い肢体を周囲の空間から紡がれる白絹の糸がするすると覆っていく。糸は見る間に浄衣に変化して、通常は白のはずの色は空が夕闇に暮れるように正装色の黒に染まっていった。神職であれば冠をするところをふわりと中空より現れた紗が頭上にかかる。神様はちらりと見返り、ベッドに横たわる幸紘を見た。 「起こしたか。ごめん」 「その格好は?」 「今日は春分の日」 「ああ……そうか」  幸紘はゆっくりと体を起こし、ベッドサイドに座って、長い前髪をかきあげる。エアコンをつけているのに窓からの冷気で気温が上がりきらずに軽く震える。例年に比べるとずっと寒い春だった。  三日前から彼岸に入っていた。  この地では彼岸の入り二日、明け二日は氏子の家々でご依頼があれば浩三が出向いて祭祀を司るが、春分や秋分を挟んだ三日の間は淵上神社は一般参拝を止める。その間、瑞淵八幡宮では氏子達を中心に餅まきなどを行う賑やかなお祭りが行われ、淵上神社では神職が拝殿に籠もって季霊祭を行うことになっていた。 「神様も季霊祭に出てたんですね。俺を仕事に送ったらバイトに行ってるのかと」 「末社扱いでも一応ここの一柱だからな。この三日間は朝から日が暮れるまではこっちにいる」 「本殿で何をするんですか?」 「特にはなにも。春分、秋分ってのは天文学的には昼と夜の長さが同じになるってだけだが、俺たちにとっては幽世と現世の誤差が最も少なくなって、境界の守りが緩む日でもある。だからあの世に行ったはずの奴らがこっちに迷って来やすくなる。幽世の未練は現世で怨霊になりやすい」 「だから墓参りするのか」 「距離が近いって事はこっちの声も聞こえやすくなるから、幽世と現世の仲介をして、怨霊を生み出さないようにするのが今日の俺らの仕事」 「今日の神気はお仕事中ですか」 「ハレ事に性根入れんのは大祭だろうが例祭だろうが同じ事だ。ユキは?」 「墓参り行ってきます。昨日は仕事で行けなかったし。親父は季霊祭で忙しいし、母さんは毎年瑞淵八幡宮へ祖母ちゃんの手伝いに行くから、子供の仕事なんですよね」 「精に集られねえの? 墓場なんかあいつらの大運動会場だろ?」 「加奈子と一緒に行ってるから大丈夫。道中から墓地に至るまであいつがいると潮が引くみたいにどっか行きますよね、『それ』が。神様は? 怪我は大丈夫なんですか?」 「たいしたことじゃねえよ。死んだ奴らの恨み言を聞くだけだ。めったなことでトラブルになったりしねえし」 「いってらっしゃい」 「おう」  神様は窓を開けて足を掛ける。例年よりぐっと冷たく強い風が部屋に入り込む。浄衣を揺らめかせ出て行こうとするのを、幸紘は引き留めた。 「あ、神様」 「なによ?」  神様が振り向く。幸紘はその顔を見上げて尋ねた。 「常々疑問だったんですが、衣装が自在に変化できるなら、どうして寝るときだけ俺の服を毎度借りてるんですか?」 「それは……」  神様は気まずそうに唇を尖らせる。そうして再び窓の外へ視線を移す際に、婀娜っぽい柳線形の涼やかな目で幸紘を流し見て言った。 「ユキの匂い……好きなんだよ。落ち着く、から……」  ぱしゃん。  神様は軽やかな水音とともに窓の桟から飛び出すと、下襲のフレアがかった長い袖を羽衣のようにはためかせ、ふわりと姿を消した。
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