3 言葉で心に嘘をつきたくないから ④

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 幸紘は後ろ姿を言葉もなく見送る。頭から火を噴きそうなくらい嬉しくて、全身の血管という血管の血が沸騰しそうだった。 「ねえねえ、神様居る?」  ばたん、と突然ノックもなく幸紘の部屋の扉が開かれる。加奈子だった。幸紘は完全に引いていない顔の赤みを長い前髪で隠して加奈子を睨み上げた。 「ノックぐらいしろよ。何回も言ってんだろ」 「あ、ごめん。で、神様は? 泊まってったんでしょ?」  幸紘は加奈子に彼がこの神社の祭神の一柱であり、実体があるから加奈子にも見える生き神なのだ、という事は伝えていた。彼女が理解した上で信用したかどうかは知らないが、それ以来オカルトや神秘好きの加奈子は何かと用を見つけては無遠慮に幸紘の部屋へやってくるようになった。  正直、鬱陶しかった。だが幸紘があまり無碍に扱うと浩三に言いつけると加奈子は言い出す。家族以外に神様の事を話しても頭の中身を疑われるだけだが、両親に話した場合は何をどうしても、主に自分に絡んで面倒くさい事態が起こることが幸紘には容易に予想できた。 「着替えて御社殿へ行った」 「早!」 「親父だって昨日はもう御社殿に籠もってただろ? 季霊祭はいつも八時からなんだから、準備とかいろいろ考えたらこんなもんだ」 「なんだお兄ちゃん、お父さんの仕事なんて全然興味ないんだと思ってた。タイムスケジュール把握してんだ」 「興味とかそういうんじゃなくて毎回の習慣の話だろ。どうする、墓参り。何時に家出んの?」 「お母さんがお祖母ちゃんちに行ってからでよくない?」 「じゃあ八時過ぎな。出てけよ。着替えるんだから」 「恥ずかしがるほど立派な体かよ。それとも貧弱すぎるから? ぷくく」 「うっせえな! 出てけっつってんだろ、この、がさつ女!」  投げつけたクロッキー帳が閉じられたドアに当たる。その向こうで高音の軽やかな笑い声を響かせて加奈子は去って行った。  幸紘はゆらっと立ち上がるとドアに落ちたクロッキー帳を拾い上げる。最初の数ページを除けばあとは出来損ないの神様か、もしくは黒い魚影が隙間無く描かれている。幸紘は今朝の一連を思い出し、クロッキー帳を胸に抱いて深く息を吐く。まだまだ力量不足なのが恨めしかった。  白の半袖の上からダブッとした大きめのシャツを着て、フード付き厚目のアーミー風のジャケットコートを羽織って階下に降りる。加奈子は固定電話で誰かと話しているところだった。 「あ、うん。八時過ぎたら行くと思う。ううん。歩いて。そんな遠くないし。え、大丈夫。今日は全然予定入ってないから。うん。いいよ。わかった」  楽しそうな会話を終えて加奈子は受話器を置いた。 「誰?」 「彩美ちゃん。お墓参り行くんだったら向こうで落ち合って、その後受験勉強付き合ってあげようって思って」 「え゛?」  幸紘は蒼白の顔を加奈子に向けた。 「それって……お墓から直で? うちに来るの?」 「ううん。彩美ちゃんち」  行きは良いとして、帰りに一人になってしまえば『それ』らにまとわりつかれるに決まっている。眼鏡である程度は無視できても、時々水辺に生きる『それ』に足を取られたりすることがある。幸紘にとって非常に問題があった。  凍り付いている幸紘を加奈子はニヤニヤと笑って見た。 「なに? 一人で帰るの、寂しいの?」 「え……あ、はい……サビシイ、デス」  幸紘は前髪で隠れた顔は無表情のまま棒読みで言った。寂しいわけがない。お守りが居ないと困るだけである。 「じゃあ叔父さんの車で家まで送って貰ったらいいじゃない」 「あ、そっか……叔父さん、車だ」  扶桑ヶ原町の自宅から来るのだから当然だった、と幸紘は思い至る。  本来であるなら氏子と一緒に地域のお祭りを仕切るのは瑞淵八幡宮の宮司としての翔の役目だ。だが地元に住んでいない翔はお祭りの最初と最後の儀礼だけ司ると地域交流を祥子と光子に任せていた。 「そんなに一人が寂しいなら、彩美ちゃんちに一緒に来ても良いわよ」 「あ、もういいです。結構です。一人が好きなんで。叔父さんに頼ミマス」  加奈子は相変わらず意地悪くにやにやと笑ったが、幸紘はすっと背を向けて洗面台へと入っていった。
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