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「媛が、神様の正義は、この土地の豊かな生態系を守っていくことだ、って言ってました」
幸紘は神様に右手を伸ばす。その手をとって神様は手首に口づけた。
「『力』の源だからな。だけどそれだけじゃない。お前を守るってのも、俺の『覚悟』だった」
神様が泣くのかと思った。幸紘は右手に力を入れてさらに近づけると、彼の白く滑らかな頬に沿わせた。
泣かせたくない、と幸紘は思う。瀬織津媛に立ち向かったときもそう思った。この神様が在ることが、自分の幸せなのだと。だから神様が求めなかったとしても、死ぬ気で守るとその時の幸紘は『覚悟』した。
「俺が、足手まといになりましたね」
「ユキの所為じゃねえよ。俺にかけた自分の『まじない』を叶えるだけの力が足りなかったんだ。土地の力が、弱ってるのもあってな」
「土地の力?」
「山津神の力の源はその土地だ。俺は鏡池であり、その池に繋がる水脈が走る大地そのもの。昔の人の暮らしは水を大切にし、その水を田に張って大地を潤し、山を整えて水脈を守った。だがそのサイクルが弱ってるから、俺の力も正直昔ほどじゃなくなってる」
「だからメガソーラの計画を邪魔してたんですね」
「まあな。媛の言うとおり、俺にはこの土地を守るっていう、責務が、正義がある。そのためには生き続けなきゃならねえし、自分の力の源を失うわけにはいかねえ。ただ……」
神様は躊躇いがちに言葉を詰まらせる。幸紘は愁いを帯びたその顔をじっと見つめた。
「ただ?」
「人の中で過ごして、人の欲望が在野を覆っていくのを目の当たりにすると、いずれ、この土地も彼らの開発の波に呑まれ、禁足地も失われるんだろうな、とはいつも思ってる」
「止める力くらい、あるでしょう。それこそ天罰でも落としたら……」
そこまで言って幸紘は言葉を途切らせる。
幸紘の頬に添えた手に手を重ねて、神様は一瞬だけ眉を下げて少し首をかしげ、唇をきゅっと噛みしめた。
「仕方ねえよ」
言葉にしたとき、表情はいつもの平然顔に戻っていた。
自分の未練を断ち切れないから、言葉にする。あがいている。人の世界との縁を持つ者ほど神と人の境に存在する二律背反に苦しむ。
瀬織津媛の言葉が幸紘の中で繰り返される。諦観しているように彼が振る舞おうとするほど、嘘をついた言葉が切なく幸紘の心臓を鷲づかみにする。
ああ、この神は、本当に人に優しい、と幸紘は改めて実感する。
しかし彼がどんなに人を大切に思っても、現代の人は見えない存在の事を敬えない。神様は人を慈しむ心と彼らの暴挙との狭間で、それを仕方ないと口にして、いつか神としての自分が消える未来を受け入れようとしている。
熱い震えが喉の奥からこみ上げてきて、幸紘の胸の内をぐらぐらと揺らす。それが神様へ尋ねる声にも現れていた。
「神様は……もし、鏡池が失われたら、死ぬ、んですか?」
「問答無用であの池が埋め立てられて生き埋めになったら、実体と神格失って完全に死ぬんじゃね?」
「じゃあ、池が残ったら、死にませんか?」
「池が残っても池と繋がってる水脈が絶たれりゃ、神格は失うんじゃねえかな」
「神格が失われたら、どうなるんですか?」
「精が食えない。人の姿も失って、ただの魚に戻る。命を維持するにも普通の魚と一緒で餌食って、実体を維持して、維持できなくなったら、たぶん生物としての死を得る。それだけだ」
「どのくらいで?」
「さあな。神格を得るまでに平均寿命はとうに過ぎてたから、長くはないだろうよ。あの池だったら一,二年ってとこか。仕方ねえわ」
幸紘はがばっと布団から起き上がる。その際、左腕に力が入って激痛が全身を駆け巡ったが、そちらに気を回すのは二の次だった。
「仕方ないなんて、言わないでください!」
幸紘は喉にこみ上げた熱さが目頭に移っていくのを感じて、唇をぎゅっと噛んだ。神様はその顔をぽかんと口を開けて見る。うっすらと目尻に溢れた滴の理由が痛みのためか、怒りのためか、幸紘にはもうわからなくなっていた。
「ユキ?」
「仕方なくなんかないんだ」
幸紘は絞るように言った。
仕方ないなんて言葉で、神様自身の存在を簡単に片付けて欲しくはなかった。
仕方ないなんて言葉で、神様を失いたくないと思っている幸紘の気持ちまで片付けられたくはなかった。
神様がその定めを受け入れようとしていたとしても、幸紘は許せない。
失いたくはないのだ。
幸紘は神様を押しのけるようにしてベッドから飛び起きる。神様が幸紘の背に掛けた声が遠ざかっていく。階下へ滑るように階段を走り降りながら右手で目元を強く拭う。頭の中が沸騰していた。その高揚は大祭で我を失った時に似ていた。
ただ守りたかった。
ただ側にいたかった。
ただ失いたくなった。
また、幸紘の中に眠る何かが悲しくて悲しくて泣いていた。それは誰のためでもなく、自分のために、貪欲に生きるための『覚悟』を決めろと叫んでいた。
幸紘は階段を降りきって浩三の部屋に向かう。台所で食事の支度をしていた光子と加奈子が怪訝な視線を向けていたが、目もくれなかった。
「親父!」
ノックもなく引き戸を力に任せて幸紘は開いた。いつもにない荒々しい息子の姿に、中にいた浩三は脱いでいる途中だった袴をすとんと手から滑り落として目を丸くしていた。
「俺、この神社を継ぐから!」
幸紘は少し低めのハスキーボイスを張り上げて、家中に響くほどはっきりと吠えた。
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