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4 狭間に立つ者 ①
「来月くらいにギプスを外せるかもしれませんね」
整形外科病棟での定期診断の際に、担当医はレントゲンを見ながら幸紘にそう言った。
「食生活、少し意識されてますか? 骨折直後よりも骨密度もミネラル値も上がってきてます。いいですね」
「ありがとう……ございます」
幸紘は思いがけない指摘に小さくそう答えた。
神様のおかげだった。幸紘が神様に食事をおろそかにしないと約束したこともあるが、彼がずっと食べているせいもである。加奈子や光子が同じように食べていても許容を超えた量にうんざりするか気分が悪くなるのだが、神様の底なしの食欲を見ていても不思議とそうはならなかった。
神様は常に美味そうに食べた。元の体が雑食性のため、味覚は他の水生生物よりも敏感なのだという。そんなグルメな彼にとって、多種多様な食材や料理に満ちた人間世界は楽しくて仕方ないらしい。あまり表情に出ることはないのだが、気に入った味に出会うと周りの雰囲気が明るくなる。口いっぱいに詰め込むときも美味い証拠だ。そうやって幸せげに食べている姿を見ていると、ついつい幸紘もつられてしまう。神様も幸紘が見ていることに気がつくと、「神饌だ」と言っては口の中へねじ込んできたりもするから、一人で居るときより摂取カロリーは間違いなく上がっていた。
だがそんな屈託なく幸せそうな顔を、ここしばらく見ていなかった。
座り込んだソファで幸紘はため息をつく。予約患者しか扱わない午後の総合病院の会計ロビーでは、幸紘の他には白髪の年配男性しかいない。それに合わせるかのように会計事務も一人しか居ない。幸紘は自分の順番が来るのを待った。
仕方ない、と神様は昨日の朝に職場へ向かう車の中で、幸紘の選択に対してそう言った。彼の感想はそれだけだった。何がどう仕方ないのかすら教えてもくれなかった。仕事の送迎の車の中でも、ギプスが濡れないように背中を流してくれる時も、着替えを手伝ってくれるときも、部屋で食事をするときも、いつも通り他愛のない話をして、夜は一緒に眠って、また目覚める。生活は何一つ変わっていないというのに、神様からは拭いようのない戸惑いのようなものが時折見られた。
「遠野様。遠野幸紘様」
「あ、はい」
会計カウンターから名前を呼ばれ、幸紘は立ちあがる。先に支払いを済ませた白髪の年配男性がすれ違い際にちらりと幸紘を見たが、幸紘は気がついていなかった。
幸紘は支払いを済ませて財布を鞄へしまい込む。駐車場で神様が待っているはずだった。
「遠野幸紘君?」
「はい?」
振り返ったとき、目の前に先ほどすれ違った白髪の老人が立っていた。
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