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身長は幸紘よりも少し低いくらいで、大柄な男だった。彼は微笑んでいたが、その微笑みの粘度の高さに幸紘は身を固くした。
「遠野浩三さんの、息子さんだね?」
「どちら、様、で?」
「あ、失礼。私はお父さんの知り合いでね」
老紳士は慣れた手つきで胸元から名刺入れを取り出し、中から一枚引き出して恭しく両手を添えた。名刺には赤石建設の相談役の肩書きと赤石某かの名前が書かれていた。
それを手に取る。その時、びりっと指先から全身に毒々しい痺れを幸紘は感じた。
赤石を睨みつけるように見る。眼鏡の端、レンズを通さずに幸紘が見た男は、ぞっとするほどの厄虫に覆われていた。
吐き気がした。折れそうになる膝を幸紘はなんとか気力で支える。眼鏡がするりと滑り落ちてリノリウムの床に落ちた。金色の目が見たのは、ズブズブと幸紘の体に入り込もうとする無数の厄虫の姿だった。
「具合が悪そうだ」
親切心の白い仮面を貼り付けたまま、赤石が手を差し伸べる。幸紘はそれを取らなかった。
「お、気遣、い、ありがとう、ござい、ます。大丈夫、です、から」
幸紘はぜいぜいとえづくように深呼吸する。厄虫の羽音と被るダミ声がうるさい。吐き気が止まらない。どれだけ大きく息を吸っても酸素が入ってきている気がしなかった。
死ぬのかも、しれない。幸紘は予感してぞっとする。
こんなところで倒れるわけにはいかなかった。車の中で待ってくれている神様を想う。厄虫がとにかく邪魔だった。
どうすればいいか。散逸する思考力をなんとか保って考える。そこへ幸紘の中に眠る何かが、天啓ともいえる命令を下した。
追い払え、と。
「どう……やっ、て?」
何者か声に幸紘は呻きながら尋ねる。それは幸紘に言った。
お前の『聲』こそが理の『力』。全ての障壁を打ち消して、万物の『魂』を震わせる畏れの咆哮だ、と。
閃きのような声に促されて幸紘はふと、神様が精と『厄』が表裏一体だと言っていたことを思い出す。意思の障壁で精程度の侵入なら弾くことができるらしい。ならば『厄』も、それが変化した厄虫もその程度に弾くことは可能なはずではないか。
その『聲』によって。
「俺に、触れるな」
幸紘の絞り出すような低いハスキーボイスが空気を震わせる。厄虫が一斉にダミ声のような羽音を止めた。それで幸紘の体へ入り込むことはなくなった。
ただ『それ』と同じで力負けしているのか、一度は怯んだ厄虫が再び幸紘の体に一匹、また一匹と纏わり付いてくる。
「お父さんの後を継ぐことにしたとか」
赤石はどこから聞き及んだかは知らないが幸紘に尋ねた。
「ええ、そう、です」
「あのお父さんではしかたないだろうねえ。強引で、頑固だ。君はまだ若い。やりたいことだっていろいろあるだろう。お父さんはいろいろとおっしゃっるかもしれないが、君は君の人生を歩んでいいんだよ」
「父は、関係、ありま、せん」
「そうじゃないだろう。昔から聞き分けの良い子だったとも聞いたよ。すこし遅い反抗期かな。自立心があって素晴らしい。そういった若者は、こんな田舎でくすぶっているなんてもったいない話だ」
「大きな、お世話、です」
「過保護な親から離れて、都会で暮らしてみたいと誰でも思うものだ。なんだったら良い物件もご紹介できますよ。私の本業は不動産でね。君ぐらいの青年が暮らすのにぴったりの物件をいくつか知っている」
「結構、です。都会、で、暮らし、たいとは、思い、ません、から」
「田舎は不便だろう。ネットもない、公共交通機関もない。ここいらは雪も多いし、冬も寒い。若い人たちはみんな扶桑ヶ原に出て行ってしまって、寂しい限りだ」
「俺は、人が多い、方が、苦手、なので、ここが、ちょうど良い、んです。それに、俺、の、自由は、ここでしか、できない、ことだったって、気が、ついたん、で」
「自由? こんな不自由な田舎で?」
「俺の、自由は、あなたのような、人に、あの土地を、好き勝手に荒らさせない、こと、ですよ」
幸紘はさらに強く睨み付ける。先に体の中へ入り込んだ厄虫が暴れ回っているのか、内側から殴られているように苦しい。それでも幸紘は膝を折らなかった。
「荒らすなんてとんでもない」
赤石は白々しい軽い声色で言った。
「お父さんからはどう聞かれたかは知りませんが、私はこの土地を愛しているからこそ、もっと人々が集まりやすく、居心地良く過ごせるように、少々整備等をしたいのです。それら全ては地域活性化の為。もっと淵上の地が栄えればこそと思ってだね……」
「本当、に?」
幸紘は虚勢じみた笑いを見せ、口元を歪ませて犬歯を見せる。
これは、退けるべき存在だ、とはっきり確信する。人は苦手だったが、そんなことを言っている場合ではない。彼に全てを任せたら、この土地が無残に荒れていくなど、考えるまでもない。
土地の豊かな生態系こそが神様の『力』の源だ。それが荒らされるということは、神様を穢されることに等しい。それも時流の定めだと、仕方ないと呟いた時の神様を思い出して、苦しくなる。人を想うから自らが滅びゆく定めを受け入れようと言霊の嘘に縋る神様を、幸紘は守りたかったし、守らねばならなかった。
泣かせたいわけじゃない。
ただ守りたい。
ただ側にいたい。
ただ失いたくない。
それだけなのだ。
幸紘の中で吠える獣が本能を支配する。それは目の前の存在に対してむき出しの敵意を見せて低く唸る。それに鼓舞されるように、敵に対する挑発が人見知りであるはずの幸紘の口からすらすらとついて出てきた。
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