1 神様と私 ②

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1 神様と私 ②

 スマートフォンが四時五〇分に震え、小さな鈴の音を響かせる。カーテンの隙間から見る窓の外の空には下弦の月が空高く上っていて、夜のまだ一番暗い時間の空が藍色に染まっていた。  幸紘はのっそりと起きて部屋の電気をつけ、壁面に作り付けられたワードローブを開けて着替えを手にする。いつもは制服へ着替えるのに五分もかからないところが、今日はギプスに苦戦する。今時の作業服のアンダーは随分と伸びる素材だが、袖の短い夏の方が骨折は楽だろう。  幸紘は作業服を右腕だけ通して肩に掛け、眼鏡をかけて部屋を出る。暗い階段を足音を忍ばせ、加奈子と光子のテリトリーである二階を足早に過ぎた。  炊飯器だけが誰よりも早く仕事をするダイニングキッチンもスルーして、バリアフリー対策でごくごく静かに閉まる自動施錠の玄関へ向かう。靴を履くのにも四苦八苦して家を出ると、電柱にたった一個取り付けられた弱い外灯の光を目指して駐車場へ向かって歩く。吐く息が白く眼鏡を曇らせた。  途中の林の中で梟の鳴き声を聞く。先月まで気味が悪かったのに、今はさほど気にならない。  大きな石鳥居の前で幸紘は立ち止まった。  淵上神社と書かれた扁額の先、手入れの行き届いた重厚な御社殿の方から、地を割るような大鼾(おおいびき)が幸紘の耳に入ってくる。 「瀬織津媛……だな」  実年齢四歳の幸紘を襲い、その後二〇年間トラウマになり続けた淵上神社の主祭神。その実体は火気厳禁の総木造建築内で人から奪った煙草を嗜み、したたかに『厄』を飲んでは大鼾で寝ている破天荒な女神だった。  本殿の中がどうなっているのか幸紘は知らない。一般的な空間なら神殿が設置された板間のはずだが、そんな気がしない。ただ漫画で描かれる徹夜明けのOLの一人暮らしや、テレビで見かける売り出し途中の芸人のゴミだらけの汚部屋でも、幸紘はたぶん驚かない。ピカピカに磨き上げられ、ピンクのフリルとキラキラな何かで飾り付けられている方がむしろ意外だ。幸紘の中でおどろおどろしかった主神のイメージが今ではそんなものになった。 「正体見たら枯れ尾花、みたいなオチだったな」  ぼやいて軽く頭を振る。  出会いが最悪でなければもっと違う人生になっていただろうか、なんて事を思ったが、戻らない過去に仮定を持ち込んでも意味はない。幸紘は車へ向かって足早に歩いた。  アスファルトで舗装された神社駐車場の片隅にある、自宅用の駐車ガレージのシャッターは開いていた。  ぱしゃん。  暗がりから聞こえた水音に幸紘は目を凝らす。ガレージの中にある緑のクーパの側で、緑色のジャンパーのポケットへ手を入れて俯いた神様が車体に体を預けて立っていた。 「よお」  神様は幸紘の姿を認めると視線だけ向けて軽く手を上げた。つるっつるのナチュラル頭皮はオレンジ色の毛糸の帽子に包まれ、口元まで赤いマフラーで覆われている。外灯と月の弱い光を受けて、彼の鼻先が少し赤くなっているのが幸紘には分かった。 「こんな朝早くにどうしたんですか?」 「ユキを待ってた」  神様はずるっと鼻をすすった。 「ユキ、週明け早速出勤はいいけど、大祭後、一日しか有休使ってねえじゃん」 「もう熱も下がってるし、休んでる場合じゃないんですよ。大祭挟んで三日は有給取ったんで」 「その腕でどうやってミッション車運転するつもりなんだよ」 「左足は無事なんで、なんとかなるかと」 「なるかい。ギアチェンジでミスるわ。鍵貸せよ。俺が運転してやるから」 「できるんですか?」 「免許は持ってる」 「本物?」 「教習所に通って免許センターでテスト受けてとったぜ。見る?」  神様はジャンパーのポケットから取り出した二つ折りの黒い財布ごと幸紘に渡す。中ベラがついているタイプで、透明な小窓に公安委員会発行の運転免許証が入っていた。 「写真!?」 「鍵」  神様が手を出す。幸紘は慌てて作業着の右ポケットから取り出して渡した。 「あ、はい」 「助手席乗れよ。ああ、寒……」  鍵を開けて運転席に神様が、助手席に幸紘が乗り込む。すぐに神様はクラッチとブレーキを踏んだままエンジンをかけた。
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