4 狭間に立つ者 ①

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 ぱしゃん。  一瞬、空間に水の静寂が広がった。  直後、幸紘の背後にあった病院の入り口から大砲のような破裂音が響く。外から吹き込んできた強い一陣の風は、幸紘の目の前に居た全ての厄虫を一瞬にしてかき消してしまった。 「きゃああああ!」  ロビーやカウンターに置かれていた紙類や軽いオブジェが吹き抜けの天井へ猛烈な勢いで全て巻き上げられていく。紙で作られた白い竜巻が病院内を蹂躙する。すこしでも隙間をあけていた扉へは猛烈な風が入り込んでいく。騒ぎに巻き込まれた人間は突然の事に全員阿鼻叫喚の内にその場へ蹲った。 「行くぞ」  騒ぎの中で幸紘の体はひょいっと抱え上げられる。まともに目も開けられないような強風に逆らって、神様が大柄な幸紘を軽々と小脇に抱えて外へ走って行くところだった。 「大丈夫か?」   駐車場に止められた車の助手席に幸紘は放り込まれ、そのすぐ後で神様が運転席へ乗り込んでくる。  幸紘の体から安堵によって緊張が解かれていく。それまで興奮によって忘れていた厄虫の毒が急激に体内で暴れ出し、呼吸がしづらくて幸紘は何度か咳き込んだ。都会に出たときに『厄』に浸食されたのと同じだ。吐き気がとまらなかった。 「顔が真っ青だ」  神様が幸紘を抱き寄せる。幸紘は神様の胸元に縋り付いた。辛くて苦しくて涙が出た。それでますます息苦しくなってえづいた。神様は幸紘をさらに強く引き寄せた。 「ユキ、俺と呼吸を合わせろ」 「な、んで……?」 「水性の気の他に、俺もお前と同じ『清』の気も持つ。『清』の気は交換することで御霊の穢れを浄化する力がある。その力を利用してユキの中の厄虫の呪いを、俺がもらい受ける」 「いや……だ。神様に、悪いところ押しつけ、るの」 「馬鹿。俺はユキより全然強いんだ。それにユキは『それ』を食えねえけど、俺は食える。消化できんだよ。大食なの、知ってるだろ? 心配すんなよ」  神様がとんとん、と幸紘の背中を穏やかになだめてくれる。 「俺に全てを預けろ、ユキ」  そのリズムと規則正しい心臓の音に促されて、幸紘は神様の厚く柔らかい胸板に顔を埋めたまま、彼の中で吸って吐かれる空気の流れを追った。 「神様……神様……」  幸紘は神様に縋り付き、鼻から大きく息を吸う。  神様の胸元からは冷ややかに澄み切った水と、水に親しい花の上品で柔らかい香りがした。幸紘は目を閉じてその香りを堪能する。低めの体温もしなやかな筋肉の柔らかい肌も心地よかった。すぐにすうっと体の中に蟠っていた鉛のような重苦しさが軽くなっていった。  頭がふわふわした。体の中の『厄』はすっかり抜けているに違いなかったのに、自由になる幸紘の右手が貪欲に神様を求めてするするとその背中を滑った。  幸紘の手の中に何度触れたいと想い続けたかわからない彼の形があった。幸紘は神様の形を追うように右腕で神様をかき抱き、胸元へ顔を埋めて擦り付けた。 「……ぁっ……」 「あ?」  幸紘の右腕が神様の背中を抱き、手が彼の左の脇腹に触れた時、神様の聞いたこともないような甘い声を聞いて、幸紘は正気に戻って動きを止めた。  ちらりと幸紘が視線を上げると、あさっての方向へ顔を逸らす神様の耳が真っ赤になっていた。それを見た瞬間、幸紘も真っ赤になって神様に縋り付いたまま動けなくなった。  幸紘の胸の内がソワソワを通り越してぞくぞくした。耳を寄せた神様の胸から響く鼓動は早い。その早さは幸紘も同じだった。気まずすぎて離れるに離れられなくなってしまった。かといってこのままの状態でいいわけもなかった。  どうすればいいのか、と幸紘が迷っていると、くしゃっと神様に髪を乱された。 「は、半人前が粋がってんじゃねえよ。使い切れもしねえ力を使おうなんてしやがって。ちゃんと強くなりたいなら、自分の弱さをまず自覚しろよ。何よりその左腕!」  神様は犬を撫でるように荒っぽく幸紘の髪を乱す。嫋やかな指先の心地良さに幸紘は目を閉じる。神様の不器用な優しさがじんわりと胸に染み渡った。 「仕方なくて……ごめんなさい。弱くて……ごめんなさい。でも俺は、この土地を守るって決めたんです。だから引けなかった。神様が俺のそういう向こう見ずなところに仕方ないって呆れてるの、知ってるんです。でも……」 「わかってんじゃねえか。ついでに俺がユキの決断に仕方ねえって言ったのはな、それがわかっててもなお、そんなお前に付き合おうとしてる俺自身のオヒトヨシ加減に対してなんだよ!」 「いてててて」  幸紘は神様にさらに髪をかき乱される。そこまでされてようやく幸紘は神様から離れることができた。  病院の出入り口には騒ぎを聞きつけた警察が集まり始めていた。神様は車のエンジンをかける。 「俺、強くなるんで」  その音に幸紘の言葉が重なった。神様はちらっと幸紘を見ただけで聞こえたのかどうなのか幸紘にはわからなかった。  車は何事もなかったかのようにするすると、病院のゲートを抜けて走り去った。
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