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1 神様と私 ③
幸紘はポケットに入れていたスマートフォンを取り出して時間を見た。
あと五分ほどで昼休憩のチャイムが鳴る。このペースなら今日はそれほど残業せずにすむだろう、と幸紘は軽く息を吐いて肩の緊張を解す。昨日は長く車の中で神様を待ちぼうけをさせてしまったのだ。
「あの~……」
その後ろにそっとすり寄る影があった。幸紘の二年ほど先輩だ。だが先輩と言っても技術的にはつい最近までCADソフトを一切触ったことはなく、もっぱらできあがった図面を営業や現場、そしてまた製図室に連絡するような仕事しかしていなかった。
「……この部分の処理なんだけどぉ」
「どれっすか?」
幸紘は彼から図面を受け取る。
「ああ、これだったら、この部分の始末をこの部分と一体にすればいいんじゃないっすかね。こんな感じでつなげて。材料を流し込んだらこの部分は薄いバリになる感じっすね。注ぎ口も減るから工数は二,三減るでしょ?」
「その図面の手直し……なんだけど」
幸紘はちらっと先輩の顔を前髪の隙間から見る。この人はいつも休憩前や終業前といった、人がイライラするタイミングを見計らって仕事を持ってくる。相手が自分の時間を確保するために仕事を肩代わりしてくれるのを期待してのことだ。からくりに幸紘が気がついたのはほんのつい最近だった。
幸紘は胸ポケットから赤い細サインペンを取り出す。そうしてプリントされた図面にざっざっとペンを走らせて訂正線を書き足した。
「このラインを消して、こうつなげて、こっちをこの程度こちらに移動させれば工材に無駄がないはずです。数値的にはいけると思います。すぐ昼になるんで一旦休憩してはどうですか、先輩。午後から頑張ってください。俺も、いつまでもいられるわけじゃないんで、ご自分で」
先輩の顔にはできるなら今やって欲しいという気持ちがありありと浮かんでいたが幸紘は見ないふりをして立ち上がる。ちょうど昼休憩のチャイムが鳴った。振り向かず、幸紘は製図室から出て隣接した食堂へ向かった。
「やるじゃない」
幸紘が自動販売機でコーンスープを買い、取り出し口から商品を引っ張り出したところで畑中から肩を軽く叩かれた。
「まだ恨めしそうにこっち見てる」
畑中から言われてちらっと製図室を見ると、ブラインドの隙間から中が見える。先ほどの先輩が年配の社員に愚痴っているようだった。年配社員が幸紘と畑中に何気なくアイコンタクトを向ける。幸紘はふいっと視線をそらして缶を荒っぽく振る。畑中はひらひらと製図室に手を振ってコーヒーを買った。
暦の上ではあと二週間ほどで彼岸を迎えて春になるというのに、淵上の土地ではまだ空は重苦しい冬の雲に阻まれて太陽の光は届かない。風の冷たさに手にした温かさが負けそうだった。
社内wi-fiが繋がらないせいでほとんど使われることのなくなったプレハブの食堂へ二人で入って、好きな場所で少し距離を置いてパイプ椅子に座った。幸紘は長机の上に缶とプロテインバーを置く。缶をテーブルに押しつけて固定し、片手で器用に開けて口にした。
「畑中さんのおかげっすよ、仕事を押しつけられずにすんでるの。俺が近いうちにやめるかもしれないなんて思わせてくれてるから。まあいつかは嘘だってばれるんでしょうけど、今はもうちょっとその魔法は使おうかと」
「親切に教えてあげてるのは代償? 前までだったらできないなんて泣きついてこられたら、無言のまま仏頂面でふんだくってたでしょ?」
「発想の転換っすよね。自分でやった方が早いってこれまで思ってたし、実際数がないときはそうなんすけど、数が増えてきたら結局自分の仕事が滞って全体の進捗が下がるだけだってわかったんすよ。ゼロか全かじゃなくて、七:三ぐらいで振り分けてやった方が全体進捗はいいっすよね。精神衛生上にも」
「成長したじゃない」
「って言っても、畑中さんが俺を休ませるためにみんなへ責任を割り振ってくれて、ある程度の技術的素地が生まれたからそれができたわけで。そうじゃなかったら俺は今でも書類の山で埋もれ死んでたと思いますよ」
「死ぬ前に辞めるんじゃない?」
「辞めるなんて、発想すらありませんよ」
缶をくるくると回して幸紘はくいっと粒入りの中身を空ける。プロテインバーの袋は畑中が開けてくれた。
発想がなかったのはここをやめて別の場所に行こうとすれば地域全体で可能性を握りつぶしてくるという現実があったからだ。ここをやめるときは神社を継ぐときであるし、神社を継がないならここ以外に勤める選択肢は今のところ幸紘に残されていなかった。
「とにかく目の前のことを片付けないと、としか思えなくて」
「あたしもそう思ってた時あったわ。精神的に追い込まれてるときってそうよね」
プロテインバーを囓る幸紘に、畑中が穏やかでありながらも芯の強い微笑みを見せる。彼女も今に至るまでには前会社の倒産や離婚など、いろいろと辛酸を嘗めているのを幸紘はかつて聞いたことがあった。でも彼女は生きることに膝を折らなかった。膝を折れば残された家族が路頭に迷うからだ。彼女の芯には守るものを持つ者の強さが通っていた。
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