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学は覗いていた天体望遠鏡を投げ飛ばし、階段を走り降りた。部屋着のまま外へ飛び出して、ただ逃げることだを目的として、走り続けた。
息が切れて、立ち止まる。
目の前には歩道と車道のついた大きな橋があって、その手前は十字路になっている。周囲には民家や、何を営んでいるのも分からない古ぼけた家屋がある。何度も辺りを見回していると、空に広がる満面の星が、ゆっくりと地上に振り落ちてきているように感じられた。
見慣れない景色ではあったけれど、見慣れている場所ではあった。普段は他の地域に行く際に、車でこの橋を渡ることが多かった。運転はいつも父親で、思い返してみれば、この橋を車に乗って渡ったのは随分昔のことのような気がする。
学は横断歩道を渡って、橋の上に立った。遠い橋の終着点をじっと眺めて、見えない何かを探している。
橋の歩道をとぼとぼと歩き出すと、足が橋の上をリズミカルに踏みしめるのと同じタイミングで、ぽたぽたと雫が落ち始めた。
自分の居場所は、どこにある。
まだ中学生である学の生活圏は狭い。家と学校、その二つが学の世界の大半を占めている。だが今日、学は自分の世界から拒絶された。学校では殴られ、家では両親が終わらない怒声を上げている。学はもう、どちらにも戻りたくない、と思っていた。自分の居場所だったはずの二つを失い、学の世界は完全に崩壊した。世界を修復したいと望んでも、その術を知らない。学には、ただ泣くことしか出来なかった。
十分ほどで歩いて行くと、橋の歩道の上に人影が見えた。学は涙を拭って、歩きながら前方の人影を見据える。歩を進めて行く度に、人影がより鮮明になっていって、やがてその全貌が明らかになった。
その人影は、上下共に金色のラインが入っているジャージを着た、若い女性だった。電灯に照らされる亜麻色の髪が揺れて、学ははっと息を呑んだ。虚ろな目で川を眺める女性の姿が、まるで夜空に浮かぶ恒星のように見えたのだ。
遠方まで広がった夜空が彼女の背景と同化して、周囲の星々と混ざり合い、天の川を形成していく。学は、自分も銀河の一部になったかのように思えた。
「あ、あの――」
学が女性に声をかけると、女性は虚ろだった目に生気を灯して学の方へ顔を向けた。女性の足元には靴が両方とも脱ぎ捨てられている。
「どちらさま?」
女性が首を傾げながら尋ねる。姿だけでなく声色も美しかった。流れ星のように繊細で儚く、それでいて鋭さのある聴き取りやすい声だった。
「知らない人には、自分のことを話さないようにって、学校の先生が……」
「そう。しっかりした先生だね」
「ここで、何をしているんですか?」
「さあ、なんだろう。ナナシ君は、こんな時間にこんな場所で何をしているの?」
「ナナシ君?」
「君のこと。呼び名がないと、不便だから。気に食わなかった?」
「あ、いえ、そんなことは……」
加藤学という名前とは別の、自分の名前。なんだか、居場所を失くして辛かった心が、ふっと軽くなったような気がした。
「学校の先生は、夜に出歩いちゃダメ、って教えてくれなかった?」
「いいえ、教えてくれました。だから僕は、良くないことをしているんです。
両親にも告げずに、家を飛び出してきましたし」
「でも、お父さんもお母さんもナナシ君のこと、心配してくれてないんでしょ? あ、不思議そうな顔をしているね。私も似たような経験あるから、分かるんだ」
彼女は離れた位置に転がった二つの靴を履きなおして、学の側に腰を下ろした。一度髪を掻き上げて、学にも座るように言う。
学は、舞った彼女の髪から放たれる良い香りにたじろいでいた。その香りは女性を強く意識させるような甘い香りで、目の前の美しい容貌を見ながら嗅ぐと、上手く呼吸が出来なくなった。
「座らないの?」
コンクリートに直接衣服をつけながら、彼女は上目で学を見た。学の胸の鼓動がより早くなって、抑えようにもその方法が分からない。とにかく、懸命に視線を彼女の姿から逸らして、平静を取り戻すしかなかった。
「なるほど。多感なお年頃、ってやつだ」
「からかわないで下さい」
「なら、私の横に座りなさい。ナナシ君」
座らなければ馬鹿にされるような気がして、学は目を瞑りながら勢いよく彼女の横に腰を下ろした。髪ではなく埃を舞わせながら座るその様に、彼女は微笑を漏らす。学は恥ずかしくもあったが、同時に嬉しくもなった。
「よく出来ました。帰る気になるまで、お姉さんが付き合ってあげるよ」
帰る気になるだろうか、そんな不安がよぎったが、目を開いて彼女の姿を見ていると、どうでもよくなっていった。
「お姉さんは、用事とかないんですか?」
「んー、お姉さん、っていうのも、なんだか味気ないね。私も君に、ナナシ君、ていう名前をつけてあげたんだから、ナナシ君も私に名前をつけてよ」
待っていたわけではなかった。ただ、彼女を一目見た瞬間に思ったのだ。その思いが、単純にそして素直に口から飛び出した。
「ステラ! 名前は、ステラ!」
「ステラ? どういう意味?」
「ラテン語で、星、ていう意味なんです。初めてお姉さんを見た時、星のように綺麗だと思ったから――」
途中から口ごもる。女性に綺麗だなんて言ったのは、生れて初めてだった。
「顔、真っ赤だね。いい名前、ステラ。すごく嬉しいよ、ありがとう」
笑みを見せるステラ。彼女の視線の先で、少年は熱くなった顔を俯かせていた。
「星、好きなの?」
ステラがそう尋ねると、学はようやく顔を上げた。顔の火照りはまだ冷めきってはいない。むしろ、ステラと一緒にいる間は、胸も顔も冷めることはなさそうだった。
「はい、星とか宇宙が好きなんです。小さい頃に、お父さんが天体望遠鏡をくれて、それがきかっけではまっちゃいました。ステラさんも、見てみればきっと――」
「敬語」
「――え?」
「それと、さん付けもいらない。今、この世界には私と君。ステラとナナシしか、いないんだよ。だから、畏まる必要なんてない」
今、この時だけは。ステラにとっては学が、学にとってはステラが、各々の生においての、全てだった。
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