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ある人に、プロポーズしようと思っていた。
出会いは二年前、通勤中の電車の中。まだ仕事を始めて間もない新卒だったらしい彼女が、履き慣れないパンプスに遊ばれ、電車に乗ってすぐつまずきそうになったところを助けたのがきっかけだ。
その時、顔を上げた彼女に僕は一目惚れした。黒く、艶やかな長い髪。色素が薄く、きめ細やかな肌。くるりとした大きな瞳に心を奪われた。
それからというもの、彼女とは電車で会うたびに会釈する仲になった。だが次第に気持ちが抑えきれなくなった僕は、思い切ってデートに誘ってみた。
結果、彼女は困惑した。しかし助けられたことへの恩義を感じてか、はたまた僕の熱意に当てられてか、渋々デートを承諾してくれた。こじんまりとしたカフェでの休日ランチデート。だが意外にも話が弾み、次回のデートも快く決まり、三回目のデートを経て付き合うこととなった。
ただ、彼女と話していて感じたことがある。それは彼女の感覚がどこか遅れていることだった。キャッシュレス決済やその他電子端末の操作に疎かったり、そもそも携帯電話を持っていなかったり。歳は僕より二つしか変わらないはずなのに、かなり古い曲や、懐かしの俳優も好んでいた。
そんな彼女にどこか、僕は亡き祖母の影を重ねていたのかもしれない。事故で早くに両親を亡くした僕は祖父母の家に引き取られた。そこで深い愛情を与えてくれた祖母、彼女と出会う二ヶ月ほど前に亡くなった祖母の影を。
ある日の夜。いつものように自分の家が如くソファーでくつろぐ彼女に、明日は出張で少し家を空けると伝えた。この出張から帰ったら伝えたいことがあることもつけ加えて。
それを聞いた彼女はソファーから飛び降り、台所で食器を洗っていた僕の背中に抱きついてきた。
伝えたいことに察しがついて嬉しかったんだなーー。そんな自惚れを抱いていると、次第に彼女が泣いていることに気がついた。
しかも、
「いかないで!」
明らかに嬉し泣きのそれではなかった。伊達に二年も一緒にいるわけではない。
「ど、どうしたんだよ」
「いかないで! ずっとここで一緒にいたいよ!」
普段あまり感情的にならない彼女が、どういうわけか声を潤ませて何かを訴えかけてくる。これだけでもう只事ではないことは一目瞭然だった。
「大丈夫、君のことを忘れたりなんてしないよ」
皿洗いの手を止め、近くの布巾で水滴を拭き取った手を、そっと彼女の肩に乗せた。すると何かを決心した彼女は、耳を疑うようなことを言い放った。
「そういうことじゃないの。実は私……死神なのよ。そしてあなたは明日死ぬ」
唖然とした。この際、僕が明日死ぬことは置いておく。それよりも彼女が死神であるということに驚いた。
「詳しく、話してくれない?」
それから彼女は自分のことについて話し始めた。
死神の仕事は、死者の魂を常世へ届けること。そして僕の前に彼女が担当していたのが、僕の祖母だったらしい。
死期、祖母は彼女に、心残りである僕の様子を見てきてほしいと頼んだ。それを快諾した彼女だったが、僕に近づこうとした矢先、慣れない靴を履いたばかりにつまずいてしまったらしい。そこで僕と出会ったというわけだ。
死神には人間の寿命がわかるらしく、僕の寿命は年齢のわりにかなり短かった。そのことに疑問を感じた彼女は、僕の恋心に漬け込んで観察を始めたようだった。
「あなたが明日出張に行くってことを知って、私は確信した。健康体であるあなたは、きっと何らかの事故に巻き込まれて死ぬんだなって。だからつい止めたくなっちゃった。いつのまにか私、本当にあなたのことが好きになってたみたい」
もし死期を知ってその要因を排除しようとしても、定められた死期とは必ず訪れるものだと彼女は言った。きっと今回の場合も、事故を避けても発作などの他の死因がやってくるらしい。
「死神は人間に、その死期を教えちゃいけないんだ。だって自分がいつ死ぬなんて知ったら、何をするかわからないでしょ?」
その法を破った死神は地獄に落ちる、ということも聞かされた。
「なんで僕に死期のこと、教えたんだよ! 教えなきゃ君が地獄に行くことはなかったろうに!」
湧き上がる感情に身を任せて彼女を抱きしめた。彼女には線香のような匂いが染み付いている。おそらく色々な人間の死期を見届けてきたのだろう。その匂いがまた、祖父母の家にいた時の記憶を呼び覚まさせた。
罪が、胸の奥から這い上がってくるのを感じた。
「あなたと一緒なら、地獄も悪くないかなって」
「そう……か」
ゆっくりと頷く彼女。その瞳には死人のような表情を浮かべた僕が写っていた。その様は覚悟からは程遠い。
「やっぱり僕は地獄に行くんだね」
小学生の頃、僕は祖父を殺した。
認知症を患っていた祖父は、僕の大好きな祖母にいつも暴力を振るっていた。おそらく祖母が自分を閉じ込める悪人のように見えていたのだろう。そんな二人のやり取りを見ていくうちに、だんだんと祖母を助けてあげたいという気持ちが募った。
そして祖父と二人で留守番をしていた日。家の二階から外の景色を眺める祖父を突き落としたのは、紛れもない僕自身の悪意だった。
「人殺しの罪に不平等はないの。だから殺人を犯したあなたは、間違いなく地獄へ落ちる」
「だからって僕についていかなくても」
「言ったでしょ。私、あなたのことが好きになっちゃったんだもの。あなたと一緒にいられる方法は、これしか思い浮かばなかった」
二度、背中を叩いてきた彼女の顔はどこか幸せそうであった。
「だから地獄で、私と夫婦になってくれますか?」
虚を突かれた。が、それを悟られると小恥ずかしい気がしたので、堂々とした態度で返事をする。
「もちろん。どこまでも、いつまでも、一緒にいよう。まずは地獄で結婚式だ」
瞬きした瞬間、彼女の姿はなくなっていた。手に残る彼女の感触を噛み締めて、ふと言葉が漏れ出る。
「先越されちゃったな、プロポーズ」
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