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自動車部品製造工場は
郊外にあった
彼女は
乗り合いバスを降りた
停留所からさほど距離はないが
今の彼女には遠かった
膨らんだお腹と
バッグを抱えゆっくり歩いた
左手の結婚指輪が光った
昼近く日差しは強かったため
帽子を被ってくればと後悔した
息苦しさを感じて立ち止まり
ハンカチで額の汗を拭った
口をちょっと押さえ
深呼吸を数回くり返した
気を落ち着けると
お腹をポンポンと叩いて
また歩みを進めた
彼女は
正門の詰め所で教えてもらい
棟を捜し当てた
搬出入口らしきところへ
近寄っていくと
フォークリフトが停止中
おそらく製品か材料の
運搬途中だろう段ボール箱を
満載したパレットを
持ち上げたまま
その傍らにバイクが1台
横倒しになっていた
彼のバイクに間違いない
彼女は
バイクの車種とか型には
疎かったし
チューンアップされて
目立つ特徴にも気づかない
バックミラーの部分に──
彼女が交通安全のお守り
として贈った──
仔猫のアクセサリーが
付いていたからだ
「てめえ わざとだ!」
彼の声だ
フォークと荷物の陰で
作業服を着た工員(同僚)たちが
集まり揉めていた
彼が騒ぎの中心で
ポニーテールの髪の工員の
胸倉を締め上げていた
遠巻きの者たちが
止めに入ろうとする
年配の班長らしき男が
仲裁に手こずっている
彼が
血相を変えた絶叫は
作業機械の騒音に
かき消されることなく
はっきり彼女の耳まで届いた
「おれのマシン
ひき殺す気かよ!」
それは飛躍し過ぎでしょう
彼が自分のバイクに
どれほど手間暇と愛情を
注いでいるかは
彼女もよく知っていた
彼女自身が嫉妬するくらい
憤りは理解できる
が 状況から判断するに
これは事故なのだ
積荷で視界が塞がれた
と説明してる工員に
悪気はないでしょう
班長が
指摘する駐輪場に駐めない
彼にも非はあるし
バイクは幸い段ボール箱が
軽く接触したのみで
損傷もないようだし
同じ仕事仲間なのだから
許してあげなさいよ──許して
彼女は
たまらず騒ぎの輪に割り込み
大事に携えていたバッグを
彼の鼻先にぶら下げ
思いっ切り叫んだ
「はい お弁当!
今朝忘れたでしょ!」
全員が一斉に声の主を見た
青い水玉柄の
マタニティドレスの裾を靡かせ
片手を腰にあてがい
ランチバッグを持った拳を
前に突き出し
決めポーズの彼女が立っていた
母であり 妻であり 女である
強烈な存在だけがあった
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