さようなら、私の愛しい御方。どうかおげんきで。

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「私はもう……斎宮に帰れないから。もうすぐ斎王のお役目ができなくなるから」 「萌黄……」  私は言葉が出てこない。  三日夜餅(みかよのもちい)夜這(よば)いが成立すれば萌黄は処女ではなくなります。純潔は斎王の条件。どんな強い神気を持っていても一度でも抱かれれば斎王ではいられなくなるのです。  そして今、萌黄の三日夜餅(みかよのもちい)の最中でした。一夜目はなにもなかったけれど、二夜、三夜と続くのです。昨夜のようになにもないなどということはあり()ません。 「もしかして……斎王を()めたくないんですか?」 「…………」  萌黄は無言のまま顔を伏せました。  無言の肯定(こうてい)に私は胸が()まる。  私は今まで萌黄は斎王という立場にそれほど深い思い入れはないと思っていました。  だって斎王として選ばれた時、萌黄は斎宮にあがることを泣いて嫌がったのです。  十歳の萌黄がおんぼろの小さな家の柱にしがみついて、斎宮からのお迎えの使者をとても困らせたほどでした。  そんな萌黄を私は必死に(なだ)めて説得したのを覚えています。  どうして拒むのか私には分かりませんでした。なぜなら斎王になって斎宮にあがるということは、貧しい生活から抜け出せるということなのです。  斎王になれば隙間風(すきまかぜ)()くおんぼろな家で寒さに震えることはなく、()えに苦しむことはありません。斎宮に行けば貧しさから解放されて明日を心配することなく生きていけます。  私は萌黄と離ればなれになることは寂しかったけれど、萌黄が寒さと()えに苦しまなくていいのだと思うと安心したのです。  でも萌黄が斎王になる条件として私も斎宮に行くことを要求し、そのお陰で一緒に斎宮にあがることができたのです。もちろん私は白拍子になるまで下働きという立場でしたが、萌黄の近くにいられるのですから充分でした。  沈黙が落ちる中、萌黄が私を見つめて話しだします。 「……鶯がいてくれたからだよ」 「私が?」 「うん。本当は斎王になんてなりたくなかった。鶯と離ればなれなんて絶対に嫌だったし、自由に外に出られなくなるのも嫌だった。でも鶯がいつも近くにいてくれたから、私は斎王のお役目に向き合うことができたの」  萌黄はそう言うと自分の手のひらを見つめ、大切なものを握りしめるようにぎゅっと閉じる。 「鶯がいつも私の手を繋いでいてくれたから。手を引いて歩いてくれたから。だから私は斎王を受け入れることができた。斎王を受け入れて、そのお役目を果たすうちに自分を(ほこ)れるようになったわ。姉さまが、姉さまが私をいつも守ってくれたから」  姉さま。  いつも私のことは『鶯』と呼ぶのに、萌黄は大切なことを伝えたい時には私を『姉さま』と呼ぶ。  萌黄は私を見つめて瞳に涙を(にじ)ませました。  そして私にぎゅっと抱きついてきます。子どものように。 「姉さま、大好き。どうか私を嫌いにならないで。お願い、嫌いにならないでっ。もし私が天妃になることで姉さまに嫌われたら、私は、私は天帝を(うら)んでしまうっ……」  それは斎王として許されない言葉でした。  萌黄は覚悟しているのです。  斎王だからこそ天帝に(とつ)がなければならないことを。  でも私の気持ちも知っているから、その狭間(はざま)で苦しんでいるのです。
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