0.終わりの始まり(マエル)

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 あれは10日前、冬の星空が空を輝かせる夜だった。  私は学園時代に仲の良かった友人と、レンストランで夕食を共にしていた。久しぶりに会う友人にも婚約者が出来ていて、お互い結婚後の生活について、笑いながら語り合った。  盛り上がり過ぎて、帰りがかなり遅くなってしまったものの、何とか終電で最寄り駅に着く。人がちらほらしか歩いていない中、乗り場でタクシーを待っていた。 「はぁ……寒いなぁ〜」  白い吐息を漏らしながら、早く帰って暖まりたいと思っていた時、背後で誰かが倒れたような気配がして、振り返ってみた。  すると、黒いスーツを着た男性が地面に突っ伏し、嘔吐してしまっていた。男性に気を取られていた矢先、私の前にタクシーが到着する。  半開きの窓から運転手が「どちらまで行かれます?」と行き先を尋ねてきたが、私はすぐに首を振った。 「あ……ごめんなさい、乗りません!」  看護師の資格を持っていた私は、倒れていた男性を見過ごせなかった。出発したタクシーを尻目に、男性へ駆け寄る。 「あの、大丈夫ですか?」 「う、う〜ん……す、すいません」  背中を摩りながら事情を訊いてみると、男性は先ほどまで親族の結婚式に出席していたそう。だいぶお酒を飲んでいたらしく、どうやってこの場に来たのかすら曖昧だと言う。 「どちらからお越しになられたんですか?」 「えっと……ウ、ウェストエドムールです……オェッ」  かなり遠方から来ている。もう汽車はないし、タクシーで帰れる距離じゃない。そこへ、男性は虚な目をしながら口を開いた。 「も、もう、あそこのホテルに泊まりまオロロロロッ!」 「わ、わかりました! 私がそこまで送りますから、もう少し頑張って!」  胃液しか吐けなくなっていた男性の肩を担ぎ、すぐ近くにあったホテルまで運ぶことにした私。運よく空き室もあった。  受付の人は、ミディアムの黒髪と左目下のホクロが特徴的な、ホテルマンらしく清潔感のある男性だった。  とりあえず、字も書けそうにない男性の代わりに、私の名義で一部屋借り、前払いで清算を済ませる。 「では、ごゆっくり。何かご要望がございましたら、内線にてお呼び下さいませ」 「はい、ありがとうございます。でも、泊まるのは私じゃなくて、あそこにいる男性なんです」  玄関の方を指差すと、受付の人はそれを見遣って「なるほど」と数回頷いた。 「かなり酔っているみたいなので、ご迷惑おかけしてしまうかも知れないんですけど……」 「いえいえ。今日の様な週末には、そういったお客様もたくさんいらっしゃいますから。ご心配には及びません」 「助かります! あ、お水を一杯頂いてもいいですか?」    心強い言葉をもらって受付を済ませた私は、玄関先で項垂れるように座って待つ男性に、ポンポンと肩を叩いて声をかけた。 「空いてる部屋ありましたよ! あと、これ飲んで下さい」  受付で貰った水を一気に飲み干した男性が「……マジで助かりました」と安堵の表情を浮かべる。  これで一安心かと思いきや、重そうな腰をゆっくりと上げた男性は、不意に唇を尖らせて「ん〜、お礼にチューさせてくれ〜」と、ふざけながら抱きついてきた。 「ち、ちょっとヤダ、しっかりして下さいよ!」 「君めちゃくちゃ可愛いんだも〜ん」  突然の抱擁に困惑した私が、苦笑いで男性を引き剥がす。お酒の匂いもすごい。  こうして部屋の鍵を男性に渡し終えた私は、ホテル前を偶然通りかかったタクシーを捕まえて帰宅した――。  恐らく、写真は男性から抱きつかれた瞬間を激写されたもの。  貴族のスキャンダルをつけ狙う『パパラッチ』と呼ばれる人の仕業と思われる。もっと高貴な令嬢ならまだしも、まさか男爵令嬢の私まで標的にされるとは、予想だにしていなかった。  で、でも大丈夫……これは明らかに、誤解なんだから――そう自分の心に言い聞かせながら深呼吸をし、落ち着いて説明する。   「違うよ、キリアン……これはお酒に酔って倒れちゃった人を介抱してただけなの。当時ホテルの受付をやってた人に訊けば、証明できるはずだから」  言い終えた間際、キリアンが意外そうに片眉を吊り上げた。 「何を言っている。写真を持ってきた奴こそが“ホテルの受付”だったんだぞ? お前の直筆でサインされた名簿も、しっかりと確認させてもらった」  一瞬にして全身が凍りつく。  え、何で()()()が、私を貶めるようなことをするの……?  何がなんだか分からなくなり、頭が真っ白になりつつも「……待って! そ、そんなはずない!」と苦し紛れに返す。  しかし、キリアンはそれをあしらう様に、鼻を鳴らして腕を組んだ。 「ふん、どうだか。彼はこの写真を持ってきた際に『とても愛し合ってるように見えました』と、複雑そうな顔で言っていたよ。この期に及んで聞こえの良い嘘を吐くとは、見苦しいにも程がある」  信じられないと驚きながら、改めて写真に目を落とす。  よく見ると、写真にはホテルの玄関である“ガラス張りの扉”が内側に写っていたことに気付く。アングル的にホテル内部から撮影されたものだ。  状況整理が追いつかずに、息をのんで黙り込んでいたら、キリアンが「おい」と呼んできた。 「俺が大学で必死に勉強してた時に、お前は抜けぬけと他の男に抱かれてた訳だ。そんなにこの男と相性が良かったのか? 心底失望させられたぞ」 「わ、私は人助けをしただけで、浮気なんかしてないの! お願い……信じてよ……!」  今にも気を失いそうになりながら、前傾姿勢で必死に誤解だと訴える。それでも、彼は表情を強張らせたまま、肩をすくめた。 「はぁ〜、往生際の悪い女だな。写真は嘘を吐かないだろ?」 「そ、そんな……」  胸が切り刻まれる感覚に、膝へ置いていた両拳に力が入る。  諦めきれない私が「でも――」と言いかけた途端、ポグバ家当主であるフロリアンさんが「いい加減にせんか!」と声高に遮ってきた。 「もう言い訳は十分だ。貧相なカスカリーノ家を救ってやろうとした、私の温情まで無碍にするとはな。お前には“人の心”というものがないのか?」  人の……心……? 「そうよマエル。あなたはお淑やかで、こんなことをするような子じゃないと思ってたけれど、本当に残念でならないわ」 「ソレンヌさんまで……」  フロリアンさんに続いた夫人のソレンヌさんは、何度もお茶や買い物で一緒に親睦を深めた人。そんな夫人が、未だかつて見たことないほど目くじらを立てて、冷徹な面持ちをしている。 「散々可愛がってあげたのに。もちろん貴女は、こんな不埒な行動がどういうことに繋がるのか、理解しててやったのでしょう?」  口を開けたまま唖然とする私に、返す言葉なんて思い浮かぶはずもない。  誰にも言い分を聞いてもらえず、あれだけ優しかった夫人からトドメを刺されたことで、抵抗する気持ちは完全にポッキリと折れてしまった。  目に涙を浮かべて意気消沈する私を見兼ねたのか、フロリアンさんが厳しい顔で天井を仰ぎ、大きな溜息を吐く。 「もうよい……後日カスカリーノ家には、正式に書面で婚約破棄を言い渡すから、覚悟しておけ」  無慈悲な宣告を受けた私は、まるで糸の切れた人形のように体から力が抜け、床に泣き崩れた――。
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