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1 神の霍乱 ②
昼休みにトイレから出てきた幸紘を見た畑中は顔色を失って目を見開き、体を強ばらせた。
「どうしたの?」
「何がっすか?」
長い前髪の隙間から幸紘は畑中を見る。畑中は慌てて自販機の中では一列しか残されていないホットコーヒーを二つ買うと、幸紘を食堂へ引きずるようにして連れて行った。椅子を用意し、そこに幸紘を座らせる。畑中も正面に座って、プルタブを開けたコーヒーをずいっと差し出した。
「まず、食べよう」
「食欲が……無くって」
「それはいつものことだから心配してないけど、まあ人間、腹が減ると不安定になるもんだ。だからまず糖分で落ち着こう、な?」
畑中は幸紘にコーヒーを両手で握らせる。彼女が険しい顔でずっと見るので、渋々幸紘はそれを口にした。
「何があったの? 誰に泣かされた?」
「……わかりますか?」
「あんた、前髪で隠れてると思ってるかもしれないけど、あからさまに洗ってきましたって状態でトイレから出てきた顔が、そんなに憔悴してたら目が赤いの確認しなくたってわかるわよ。何があったの?」
「先月見合い結婚した嫁に……逃げられまして」
「同期入社以降で初めて遠野君からエイプリルフールネタ聞いた気がするけど、そんな先月の地方紙のネタを無理に使わなくていいのよ。痛々し過ぎてこっちが反応に困るわ。それに嘘ついていいのは午前中までだからね」
「あ、そっすか」
「言いたくないなら無理には聞かないけど、誰かに話した方がいいことだってあるんじゃない?」
畑中が顔をのぞき込んでくる。ずずず、っとコーヒーをすすって、幸紘はぼそりと言った。
「実は、大切な、友人の具合が……悪いんす。真っ青な顔してて。でも大丈夫って聞いても、大丈夫としか、言ってくれなくて。俺……」
また幸紘の目からぽろり、と目頭に膨らんだ涙が一筋鼻筋の横から唇をかすめて顎へと伝っていく。幸紘はそれを袖口でごしごしと拭って、ずずっとコーヒーをすすった。
今朝方コンビニへ行っても神様は棚に並んだ食べ物に一切興味を示さなかった。幸紘に気を遣って塩にぎりを一つだけ買ったが、それを車の中で食べるときもなんだか味気なさそうにもさもさと口を動かしているだけだ。美味いとも不味いとも言わないのが幸紘をさらに心配にさせる。神様は終始眠そうにしていて、バイトにもしばらくは行かないという。今日はどこにも行かずに車の中で寝ていると言って、幸紘を見送るとブランケットに蹲ってしまった。
仕事をしている時は忙しさで少しは気が紛れたが、気を抜くと青い顔で車に横たわる神様を思い出して幸紘は不安になった。魂そのものは精を摂取する限り保たれるということだが、本体を持っている山津神だからこそ病気になっている場合はどうなるかわからない不安が募る。神様が死なないまま痛みや苦しみを抱え続けるのも、人の神としての名を忘れた今の状態で肉体が失われて完全に消えてしまうのも、幸紘は嫌だった。
三月末までは普通だった。何かあったとしたら考えられるのは帰ってこなかった昨夜だが、神様がどこへ行って何が起こったのか幸紘は知らない。その本体が何で、本体が今どういう状態なのか見当も付かない。何をどうすれば神様がいつもの通りに元気になるのか思いつきもしなかった。
わからないことだらけだ。知識も、能力も、体力も、包容力も、何事においても自分は力不足であると幸紘は思い知らされる。神様に対する心配だけではなく、無力で不甲斐ない自分に対する腹立たしさでも幸紘は涙が止まらなかった。
「遠野君だってあたしが大丈夫って聞いても、大丈夫としか答えなかったじゃない」
そんな幸紘を畑中は慰めるわけでもなく、ずばっと言い放つ。その物言いがあまりにもはっきりしていて、逆に不安定だった幸紘に冷静さを取り戻させる。幸紘は軽く鼻を啜って顔を上げた。
「そうでしたっけ?」
「遠野君だけじゃないけどねぇ。大人って、大体無意識にそう答えるもんでしょ」
足を組み、頬杖をついて幸紘を見る畑中には、母にも共通する年経た女性特有の肝の据わった感じがあった。
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