1 神の霍乱 ①

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1 神の霍乱 ①

 世間的には新しい年度になる日の早朝、幸紘は一人でベッドから飛び起きた。 「神様!」  息が上がっていた。ひどい寝汗をかいていて、滴が項から胸元へと流れ落ちていった。強く早い鼓動が耳に煩い。喉元に苦しさがこみ上げて、幸紘は膝を抱えた。布団に顔を埋めると悲しみが涙とともにあふれ出て、しばらく嗚咽がとまらなかった。  幸紘は夢を見ていた。どんな夢だったのかは目覚めるといつものように具体的な内容を忘れてしまう。ただ今日の夢は神様がいて、とても悲しかったことだけは覚えていた。  広いベッドの上、幸紘の隣に神様の姿はない。昨夜は食事をした後、用があるので今夜は戻らないと出て行ったのだ。  どこへ行ったのだろう、と幸紘は行き先が気になる。夢の内容が神様にとって不穏だったという感覚があるだけに、出て行く前に聞かなかったことを後悔した。  部屋の片隅で幸紘を伺う気配を感じた。視線を移すと部屋の隅の暗がりに白い目が蠢くのが見えた。六つほどの目玉を乗せた割れた卵に、人間の足が生えた『それ』が暗がりから数匹ちょこちょこと歩いてくる。『それ』なのか『厄』なのか、はっきりとした判別が幸紘にはまだできない。少なくとも嫌な感じはしなかった。 「あ、あー……」  幸紘は喉に手を当てて声を確かめる。鎖骨と鎖骨の間から喉仏のあたりで、普段の声よりも少し低い目を意識した。 「おいで」  『それ』らに呼びかける。『それ』らは一斉に幸紘に振り向くと、目玉をくるくると動かして四方八方へと視線を飛ばした。その後、ラジオのチューニングが合ったようにぴたりと視線のすべてが幸紘に集まる。そうして一斉にじわじわよたよたと幸紘の側に寄ってきた。 「とまれ」  ぴた、と『それ』らが止まる。次の指示を待つように『それ』らの白いいくつもの目玉が床の上からベッド上の幸紘をじっと見つめる。集合体なので幸紘からしてみれば気持ち悪さがどうにも拭いきれないが、単体だったら健気な感じが、しなくもない、気がした。 「心配してくれてんの?」    幸紘は尋ねる。目玉達は何かを伝えようとするようにくるくるくるくると視線をあちこちに向けてから、再び幸紘を見た。  自身の内にある何かが言ったとおりだった。全ての障壁を打ち消して、万物の『魂』を震わせる『聲』は、幽世と現世の境界を越えて彼らに干渉している。 「これが俺の『呪』……の『力』、か」  自らの『力』の本質を理解して、もう一度喉の調子を整える。これまでは一方的なディスコミュニケーションであった『それ』らとの関係も、これからは多少ましになるのでは無いだろうか。そんなことを考えて幸紘は優しい『聲』で『それ』らに語り掛けた。 「大丈夫だから……うん。ありがとう。気にしてくれてるって、わかるから。でも……うん……放っておいてもらっていいかな。ちょっと……夢を見ただけ……だから」  いつもなら問答無用で集ってくる『それ』らが幸紘の『聲』に耳を傾けるように取り巻き、ただじっと見守っている。逆に言えばやんわりと伝えたはずの去れという含みなどは『それ』らに一切届いていなかった。  幸紘はふーっと深く息を吐く。 「出て行け」  今度ははっきりと言った。だが聞こえているはずの『それ』らは、相変わらず目玉をくるくる動かすだけでまったく従おうとはしなかった。 「さもないと形に閉じ込めて、まとめて加奈子に引き渡す」  加奈子に、という部分で部屋に存在する『それ』らの気配が、見えているものも隠れているのものも含めて一斉にびくりと震える。暗闇にいくつもの乾いた小さい足音がして、『それ』らは慌てふためいた様子でその場を逃げ出し、暗がりへと姿を消していった。 「俺の『力』よりも、加奈子の名前の方が怖いのかよ」  幸紘はぼやいて前髪をかきあげる。まだ修練が足りていないせいで、意識的に使った後は喉に負担がかかっていた。咳払いをして枕元に置いたスマートフォンをつけた。 「四時……」  幸紘は深くため息をついた。一眠りするには遅いし、目覚めるには早い。一人分のスペースが広がるシーツの上を幸紘は長い指で軽く撫でた。  神様はいつも何時に車の中でスタンバっているのだろうか、謎だった。この時間に車へ向かったとして、その中にいるかもしれないし、いないかもしれない。  幸紘は左腕の指を動かしてみる。先週、医者が今月にはギプスを外せるだろうと言っただけあって、中で指を動かしてもさほどひどい引きつれや痛みを感じることはない。この手なら自分で車を運転できるかもしれなかった。  幸紘はベッドから降りて寝汗に濡れたスウェットを着替え、作業着と鞄を肩にかけて机の上にあった眼鏡を身につける。部屋を出て行く時、背後にまだいくつかの『それ』らの気配を感じたが無視して階下へ降りた。
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