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1 神の霍乱 ③
「お先に、失礼、します」
西の空と山の際が眩しい黄金色に染まる頃、幸紘はタイムカードを押す。製図室にはまだ何人か作業中の社員が残っていたが、幸紘は自分の分をさっさと上司に提出して、彼らと目を合わせないように部屋を後にした。ゆっくりしたあげく捕まって彼らの分の仕事を割り振られる余裕が今の幸紘にはなかった。
車に戻ると今朝と同じように神様が運転席を大きく倒してブランケットに包まれて眠っていた。駐車場にかかる夕暮れの山の青い影が彼をますます弱々しく見せる。幸紘は少し強めに扉をたたいた。
「ん? 終わった?」
神様はゆっくりと目を開けて、緩慢な動作で運転席側の内鍵をあげる。がちゃんと全体の鍵が解除されても、神様はしばらく気怠げに目元へ腕をおいて、起き上がれずにいた。
「あれから何か、食べました?」
幸紘は助手席に座って神様に尋ねる。神様はゆっくりと首を横に振った。この様子では精を捕まえる気力もなさそうだった。そうなると『魂』そのものも危うい。車の中には不定形の何かに鳥の翼がついたような『それ』がいくつかふわふわと飛んでいた。試しに恐る恐る触れてみる。実体を持たない『それ』は幸紘の指先をすり抜けていった。幸紘は手のひらを広げ、喉に意識を集中した。
「ここに来い」
小さく命令する。それらはピタリと動きを止め、くるりと振り返るとすうっと幸紘の手のひらの上に引き寄せられた。幸紘が自分たちを食べたりしないだろうということに何の疑いも持つことなく、手の平の上から純朴な目で幸紘を眺めてくる。
ごめんな、と幸紘は『それ』に心の内で謝る。これまで何の良心の呵責も感じずに3Dプリンターや粘土で閉じ込めて、痛めつけて、消し去って来たことに対しても、これから期待を裏切って利用しようとしていることにも。
何事においても事を成すためにコストがかかるのはわかる。目的のために犠牲が出ても仕方ないという浩三や田舎の考え方だって根っこは一緒だ。それをできるだけ拡大解釈しないようにしたいとは常に思う。ただどんなに物事を単純化しても、絶対に避けられない理というのはある。
御霊を食べなくてはならない、ということだ。
生きることとは食べることであり、食べることは何かの御霊を必ず自らの御霊の糧にすることである。生きるという切実な現実の前にあれば、動物だから可哀そうだとか、植物だから構わないとか、そういうお気持ちの問題で語る余地はない。意識の存在が認知できようとできまいと、御霊を奪う事実は変わらない。犠牲の拡大解釈を最小限にとどめても、決して失われることのない自然の摂理だった。
「手の上から動くな」
『聲』が『それ』を完全に手のひらの上に固定した。そのまま幸紘は手を広げて神様の口元へ移動させる。触れることができなくても、こうして運ぶことはできた。
「神様、精だけでもとってください」
神様は目元を押さえていた腕を下ろす。自らの口元に身動きがとれない『それ』の姿を見つけ、神様は幸紘を驚愕と多少の非難を含んだ目で見た。
「ユキ……お前」
「食べて、ください。お願いです」
幸紘は『聲』で願う。神様は痛ましいものを見るような目で幸紘を見たが、幸紘からしてみれば真に痛ましいのは弱り切った神様の方だった。
『聲』の『力』がどの程度まで神様に影響があるものか、幸紘はわからない。普段なら加奈子でも低温火傷ほどのダメージも与えられないと言っていたので、幸紘の『聲』など本調子の神様ならまったく意に介さない程かもしれない。だが今の弱った状態では多少なりとも影響を与えられるかもしれなかった。
神様はしばらく躊躇っていたが口元の『それ』に大きな口を開けてがぶり、と食いついた。もしゃもしゃと何度か咀嚼したあと、ゴクリと飲み込む。幸紘は白い喉仏が艶めかしく動くのを眺めて息をのんだ。
神様は運転席のシートごとゆっくりと体を起こす。幸紘はその隣で神様の顔を見られずに前を向いた。
『聲』を使っているのを、間違いなく神様に知られた。後ろめたさが幸紘の尻のあたりをざわつかせる。もともと神様は幸紘に何も知らない「普通の人」として人生を全うしてほしかったから、『聲』の力をよく思っていない。
だとしても今更「普通の人」は、幸紘には無理だった。『それ』らを目視できる金色の目とともに『聲』も幸紘の『呪』の『力』だ。見る力が発現してしまっている段階で、不可分の『聲』だけ無かったことにすることなどできない。
『力』とともに生きていくのだ。神様に寄り添って生きていくためにはそうするしかない。だから神職を継ぐことも決めた。その一方で、神様の沈んだ顔を見ると、正直なところその選択が正しかったのかどうか、決意が揺らぎそうにもなる。
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