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今日も慌ただしく来室する生徒たちをさばき、校内を走り回る。目の回るような忙しさの中でも、ふとした時に昨夜の公園での出来事が頭をよぎってしまう。
六歳も年下に話を聞いてもらってしがみついてボロ泣きし、頭を撫でてもらって抱きしめられて、そのうえ部屋まで送ってもらうだなんて、フ、フ、フルコースじゃないか! 思い出すだけで赤面ものだ。
落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かすが、六時間目のチャイムを鳴ったころからそわそわして仕事が手に付かない。
……今日も一之宮保健室に来るのかな。
心の中にぐるぐると巡るのはそのことだけだった。
来月発行する予定の保健便りが完成していないので、真面目な一之宮は来るかもしれない。でも昨日の今日だ。どういう顔で会えばいいんだろう。
と言いながらも、気が付くと一之宮が座る用のパイプ椅子を自分の机の横に置いているあたり、俺も大概だと思う。
いやいやだって、どうせ一之宮はそこに座るだろうし。
あ――――! と俺は頭を掻きむしった。
どうして俺が一之宮のことでこんなに悩まなくちゃいけないんだろう。
そんな俺の葛藤もむなしく、保健室のドアがトントンとノックされ、一之宮が顔を出した。
「こんにちは」
今までそんな挨拶などしたことがないのに、一之宮はそう言って保健室に入ってきた。
「あ……えっと、こんにちは」
視線を微妙にそらしながらぎくしゃくと挨拶を返す。頬が自然に熱くなった。堪えきれなくなった俺は、誤魔化すようにパソコンに向かい合った。
きゅっ、きゅっ、と一之宮が背後から歩み寄って来る足音が聞こえる。
しかし一之宮はいつも通り置かれたパイプ椅子には座らず、俺の背後に立つだけだった。しかも黙り込んだまま一言もしゃべらない。首のあたりに視線を感じて、俺は思わずつっけんどんな声を出してしまった。
「何?」
「――いえ」
そう言ったきりで一之宮は何も言わない。沈黙がじれったくなって後ろを振り返ろうとしたとき、一之宮はようやく話し始めた。
「昨日のことですけど」
ドキリとした。羞恥心が一気に襲ってきたが、俺はなんとか「うん」と小さく返事をする。
「先生は人を愛することがよくわからないって言ってたけど、俺、そうじゃないと思います。愛って恋愛感情だけじゃないですよ。他人に優しく出来るのも、困ってる人を助けるのも、全部愛って呼んでいいんじゃないかって思うんですよ」
「え?」
俺は椅子を回転させて後ろを振り返った。
いきなり愛だのなんだのと話が始まったのにも面食らったが、一番驚いたのは一之宮は口調だ。労わりに満ちた穏やかな声が、とても寂しそうに俺の耳には響いてきたのだ。
一之宮はいきなり振り返った俺に少し目を瞠ったが、静かに微笑む。
「先生はそういうものをちゃんと持ってる。確かに今は不器用かも知れないけど、後は上手な人を真似して使い方を学べばいいだけの話だと思いませんか?」
「使い方を学ぶ……?」
一之宮が何を言ってるのか全然わからなかった。というか一之宮のおかしな表情が気になって、それどころじゃないのだ。どうしてそんなに悲しい顔をしているのだろう。
固唾をのんでじっと見上げると、彼も漆黒の瞳で俺の目を覗き込んできた。
「堂島さんと仲直りした方がいいと思います」
「……は?」
「よりを戻した方がいいってことですよ。先生みたいな人には、ああいう包容力のある人が必要です。だって先生やることなすことめちゃくちゃだし、結構口も悪いし、ケチだし、子供っぽいし」
何を言ってるんだお前? そう言い返したいのに、俺の口はまったく動かなかった。頭が真っ白でひとつの言葉も浮かんでこない。
「だからあの人のそばにいたほうがいいですよ。先生が好きとか愛が分からないって言うのならなおさら、あの人から教えて貰うべきだ。きっとあなたを満たしてくれる」
一之宮の言葉を聞いているうちに、心の底からふつふつとしたものが沸き上がって来た。それは紛れもない怒りだった。
『あなたを満たしてくれる』だって?
俺はそんなこと望んでない。
『よりを戻した方がいい』だって?
――どうしてそんなことを、よりによってお前にいわれなくちゃいけないんだ!
気が付くと、俺は椅子から立ち上って一之宮の胸倉を掴んでいた。
一之宮よりも十センチ以上身長が低い俺が凄んでも、たいした迫力ではないだろう。現に一之宮も、驚いたように目を瞬いているだけだ。それでも爆発的にこみ上げる怒りを抑えることが出来なかった。
「お前、ふざけんなよ」
情けないことに俺の声は震えていた。胸倉を掴んでいる手もぶるぶる震えだし、俺は舌打ちをして手を離すと、一之宮の肩を突き飛ばした。一之宮はわずかに体勢をくずしたが、よろけただけで踏みとどまる。
俺はそのまま一之宮の腕を掴み、保健室の入口まで引っ張っていった。
「ちょっと、先生……」
慌てたように口を開きかけた一之宮の背中を思い切り押し、廊下まで無理やり押し出した。間髪入れずに扉を閉め、めったに掛けない鍵をがちゃんと下ろす。
ふん、ざまあ見ろ。勝手なことばっかり言うからだ。
俺は鼻息を荒く吐き出したが、すぐにむなしくなって俯いた。ふらふらと歩いて自分の椅子に座る。その拍子に椅子がギイギイと軋んだ。その音はまるで自分の胸から聞こえるようだった。
どうして俺はこんなに悲しいんだろう。どうして涙が出そうなんだ。
部屋の中を伺うように一ノ宮はしばらく扉の前に立っていたが、やがて去って行った。
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