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「一之宮!」  生徒昇降口の手前の廊下に、探していた背中はあった。張り上げた声が、西日でオレンジ色に染まった廊下に響く。  一之宮の背中がおおきく震えて、ゆっくりと振り返った。 「先生?」  はあはあと弾む息を整えながら、俺は一之宮のすぐ目の前に立った。呆然と目を瞬く一之宮を下から睨みつける。 「ふざけんなよ! 何が『幸せにしてあげてください』だ!」  「えっ」と一之宮の目が大きくなった。  それを見て、ああ間違ったと思った。本当は謝るべきだったのかもしれない。そういえば俺は彼の胸倉を掴んで、保健室から強引に追い出したのだった。 「こ、この前は乱暴なことして悪かったよ。でもお前が変なこと言い出すから」  打って変わって俺が謝罪を口にすると、一之宮はまた、「えっ」とさらに目を大きくした。  駄目だ、全然何も伝わってない。  猛烈に焦りが襲ってくる。もう自分が何を言いたかったのかわからない。俺は頭を掻きむしった。 「あ~、そうじゃなくて! 俺、あの人とより戻すとかは考えてないから! だから、あんし……」  『だから安心しろ』だなんて自意識過剰なことを言いかけて、俺は慌てて口の中で言葉を変えた。 「ど、どこにも行かない!」 「……え?」 「……あ」  俺が叫んだ瞬間、一之宮の目はさらに一段階大きくなった。きょとんとした彼の表情に、一気に頬が熱くなる。  ……どこにも行かないって何だよ。  『安心しろ』よりも更に自意識過剰じゃないか。  余りの羞恥で逃げ出したくなったが、いきなり一之宮がふっと吹き出した。 「何言ってんですか」  そのまま一之宮は腹を抱えて笑い出した。俺は呆然と目の前で笑い続ける一之宮を見つめるしかない。 「ええー……。そんなに笑う?」 「だって、先生、ほんと、なに言ってるかわかんない」  ひくひくと笑いに身体を波打たせながら、ようやく一之宮はそれだけ言うと、また身体を折り曲げ本格的に笑い始めてしまった。 「だよな……。俺も自分で何言ってるかわかんない……」  気恥ずかしいやら腹立たしいやらいろんな気持ちは渦巻いていたが、楽しそうな一之宮の顔を見たら、もうどうでもよくなってきた。俺の口からも笑いが漏れ出る。  一之宮はしばらくの間笑い続けていたが、やがて顔を上げた。涙が滲んだきらきらした目で俺を見つめる。 「先生、どこにも行かないでくださいよ。自分で言ったんですから、約束は守ってもらいますよ」  目尻に滲んだ涙を自分の指先で払いながら、一之宮が微笑む。その美しさに目を奪われながら、俺はなんとか頷いた。 「……ああ、約束だ」  胸が苦しかった。呼吸さえもままならず、まるで細胞の一つひとつが一斉に芽吹き、全く違うものに換えられていくようだ。  俺はこのときになってようやく、自分の心も身体も、もう自分のものではないことを悟ったのだった。
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