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 校庭の桜の木の葉が褐色に色付き、木枯らしに赤みを帯びた葉が舞っている。俺はそれを眺めながら、温かいコーヒーを啜った。  早朝七時の保健室である。  生徒の登校時間にはまだ一時間以上の余裕があり、他の教諭も出勤前だ。割り込みの仕事が入らず、生徒の来室もなく、ひとり静かに事務作業を進めるには格好の時間。にも関わらず、目の前の書類はちっとも進まない。俺の頭の中を占めるのは、ただ一つのことだった。  そのときコンコンと音が聞えた。  俺ははっと窓のほうに顔を向ける。予想通り、ガラス越しに一之宮が立っているのが見えた。  彼はにっこり微笑むと、口をぱくぱくさせながら、人差し指でサッシの鍵の部分を指さす。 『あ・け・て・く・だ・さ・い』  やはり今日も来たか。俺は仕方なく椅子から立ち上がった。クレセントに手を掛け鍵を開けると、とたんに冷たい11月の風が吹き込んでくる。 「おはようございます。もう朝は寒いですね」  一之宮はそう言いながらスニーカーを脱ぎ、保健室に上がり込んできた。  まだこの時間は生徒昇降口は開いていない。保健室が一階なのをいいことに、だから一之宮は直接こちらから入ってくるのだ。  俺は小さくため息をつき、最近買い足したスリッパを彼の足元に置いた。 「寒いならこんな朝っぱらから来んなよ。別に用事なんてないだろうが」 「用事ならありますよ。先生に会うっていう大事な用事が」  一之宮の言葉に頬が緩みそうになったが、慌てて眉を寄せてしかめっ面を作った。 「何言ってんだか」  そっかなく言って一之宮に背中を向ける。  デスクの椅子にどかんと座ったところで、一之宮が俺の机の上に小ぶりの飲み物の缶をトンと置いた。 「はい、これ今日の分です」  思わずため息が漏れた。一之宮が持って来たのはコーンポタージュの缶だ。  一之宮は朝保健室に来るたびにこれを買ってくる。いくら百円で買えると言ってもほぼ毎日のことだ。三回買えば三百円、十回買えば千円。大きな金額なので辞めさせたいのだが、一之宮はまったく言うことをきかない。 「いらねえって言ってんのに……」 「せっかく買って来たんだからもらってくださいよ。俺コーンポタージュ好きじゃないし。飲まないなら捨てるだけです」 「じゃあ買ってくんなよ」  缶を掴んで一之宮に押し付けたが、缶を掴んだ手をそのまま上からぎゅっと両手で握り込まれた。心臓がどくっと脈打つ。 「……離せ」  睨みつける俺を、一之宮が観察するように見下ろしてくる。  最近一之宮はこうして突然触れてくるのだ。やめろといっても辞めない。さすがに人前ではしないが、ふたりきりになるとすぐに手が伸びてくる。初めはかなり動揺したが、これほど頻繁だと動揺していないように見せかけるのだけはうまくなった。  俺はわざと聞こえるように、はぁとため息をついた。 「触んなっつってんだろ」 「嫌です」 「こういうことは辞めろ」  「受け取ってもらうまで辞めません」 「……」  「いいじゃないですか。俺が好きでやってるんですから。……ただ、好きなだけで」  優しく微笑まれながらこう言われたら、何も言えなくなる。  返答が出来ずにいると、一之宮は俺の方に缶を押し付けた。俺が渋々受け取るのを見ると、満足したように戻っていく。そして部屋の中央の丸く大きなテーブルに荷物を広げ始めた。  教科書にノート、参考書。ひと揃え出し終わると、一之宮は机に向かい勉強を始めた。  本当だったら勤務時間外に生徒を保健室に立ち入らせるのはまずいのだ。それにも関わらず、俺が一之宮の来室を断れない理由がこれだった。 『俺、卒業できないかもしれないです』  一之宮にそう打ち明けられたのは一か月ほど前のことだ。  俺は「大丈夫だ、なんとかなる」と一之宮の肩を叩いたが、すぐにかなりヤバいことを知った。遅刻や早退、欠席が多く出席日数もかなりぎりぎりで、これまで真面目に授業を受けていなかった一之宮の成績は、目も当てられないものだったのだ。  それでも時間を巻き戻すことは出来ないし、一之宮の家庭には塾代を捻出するような余裕がないのはわかっている。  そこで俺は、二年の教科担当の先生に一之宮の勉強をフォローしてもらうように頼み込んだ。どの教員も普段の一之宮の生活態度を知っているため、初めは苦い顔をしていたが、じきに彼が本気であることを理解すると徐々に態度をやわらげた。  もともと教師というのは、人に教えるということが好きなのだ。ひたむきに教えを請われて、冷たく出来る人間などいないだろう。  養護教諭の俺は勉強を教えてやれないし、出来ることといえば彼にこうして場所を提供するくらいぐらいだが、それでも一之宮は感謝してくれているらしい。律義は男だと思う。  早朝の静かな室内に、一之宮がシャープペンを走らせる音と、俺のパソコンを打つ音だけが響く。  穏やかな時間だった。窓から差し込んでくる晩秋の日差しはやさしく、この部屋がひたひたと温かいもので満たされていくようだ。  最近寝不足気味だったせいか、だんだんと瞼が下がってきた。ああ駄目だ、起きないと。そうは思っても、また気が付くとうつらうつらしている。  耐え切れず上半身を机に伏せた。左頬が机に触れる。ひんやりと冷たい。呼吸をするごとに意識が白くにごり、間延びしてゆく。  心地よく温かい水の中でまどろんでいるようだ。遠くから声が聞こえる。  ――先生。  水の中で聞こえる音のように、輪郭がとけて、何重にも重なりぼやけている。  ――先生、寝てるんですか。  一之宮の声だ。ああ、そうかと納得した。彼がそばにいるからこんなに心地いいのか。  先生、とまた呼ばれる。答えたくても口が動かない。身体もぴくりとも動かせない。  背中に寄り添う温もりを感じる。誰かがすぐ後ろに立っている。一之宮かな、一之宮だといいな。そう思った瞬間、首元に温かい感触がした。撫でるように触れ、そっと離れていく。  ふ、と自分の口から空気が漏れたのが聞えた。くすぐったい。でも気持ちがいい。だって今触れてくれているのは、一之宮だ。気持ちいい、もっと触って欲しい。  その心の声が聞こえるかのように、首筋にまた温かいものが降ってきた。  ――ん。  今度は遠くから自分の声が聞こえた。甘くとろけるような声だ。  二度、三度と触れて、その柔らかい温もりは耳朶へと移った。頬を辿り、そっと羽のような感触が唇をくすぐる。  ――ああ、気持ちいい……。もっと……。  聞こえてきた自分の声に、急激に意識が浮上した。  はっと目を開ける。  広がったのは職場である保健室の光景だった。いつのまにか居眠りをしてしまっていたらしい。  俺は机に伏せていた上半身を起こし、呆然と部屋の中を見回した。  誰もいない。  一之宮が勉強をしていたはずの丸テーブルもきれいに片付けられていて、彼の気配は残っていなかった。  壁掛け時計を見るともう八時近くで、一之宮がやって来てから一時間近く経っていた。生徒昇降口は開く時間帯だから、一之宮は帰っていったのだろう。  はあ、と安堵の息が吐き、俺は頭を抱えた。  腰骨とふともものあたりにわずかに甘い疼きが残っていた。夢の中で一之宮に触れられて、昂りかけたのだ。  しかも職場で……。  俺はばちばちと両手で頬を打った。  誰だって好きな相手と触れ合う夢を見たら欲情もする。だけど、まさか首や頬を撫でられる夢でそうなるだなんて。自分がここまで切羽詰まっていたのかと思うと情けなくて地面にのめり込みそうだ。  でも唯一の運が良かったのは、ここに一之宮がいないことだった。もし本人の前でこんな状態になったら、恥ずかしすぎて死ぬ。そしてセクハラで免職。  俺はあまりの居た堪れなさに机に突っ伏した。もうじき職員会議が始まる時間だ。それまでに落ち着かなければいけない。  本当に恋とは始末が悪いことだと思う。  一之宮との関係は、どうにもならないことを知っている。あらかじめ定められた先生と生徒という線の中にいるしかない。今の状態がベストだ。この場所から一ミリも動きたくないと願っているはずなのに、どんどん欲が出てきてしまう。  俺は目を瞑った。唇を噛み締め、深呼吸を繰り返す。  彼と過ごす静かで穏やかな時間ができるだけ長く続きますようにと、ただそれだけを願って。
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