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養護教諭とは、他の教員に比べて生徒との距離が近くなりがちだ。
それに比例して、生徒からも好意を持たれやすいとも言われる。
保健室を訪れる生徒はどこかしら身体や心に不調を抱えているものだし、やさしく迎え入れてくれる人がいたら、知らず知らずのうちに心が傾いてしまう心境も理解できる。
でもこんなに簡単に人を好きになれるだろうか。こんなにも簡単に、自分の気持ちを口に出来るのだろうか。
俺はそんなことを考えながら、目の前の男子生徒を眺めた。
「僕、本当に先生のことが好きなんです。先生のことが頭から離れない」
その三年の生徒――横山がこう主張し始めてどのくらいの時間が経つだろう。
下校時間がとうに過ぎているということもあって、窓の外はすでに暗い。校庭も校舎にも他の生徒の気配はなく、しんと静まりかえっている。
俺は突然の生徒からの告白に、言葉も挟めず困り果てていた。
横山が頭痛と不眠を訴えて保健室にやってきたのは、2週間前のことだ。
受験自体のプレッシャーに加えて、両親から掛けられる期待という名の重圧、将来への不安、頭痛・胃痛・不眠のトリプル不調。彼が語る現状はハードなものだった。
俺は可哀そうになり、『いつでも保健室に休みに来いよ』と彼の肩を叩いた。
それから頻繁に彼は保健室に来るようになり、そして前回来室したとき、彼は大きな秘密を打ち明けたのだ。
『僕、ゲイなんです』
驚いたが、もしかしたら横山の一番深い悩みはこのことかもしれないと思った。だから俺は必死に、それは決しておかしなことではないこと、恥ずべきことではないことを伝えた。横山は涙を流して何度も頷き、安堵した顔で帰っていった。
それが数日前の出来事で、どうやら横山はわずか数日で「先生のことが好きだ」という結論に至ったらしい。あまりにも軽く短絡的で驚いたが、高校生の恋愛なんてこんな程度かもしれないとも同時に思う。
そんな俺の心境など知らずに、横山は言葉を続ける。
「何も手に付かない。それぐらい好きなんです。どうしていいかわからない」
「……うん、話はよく分かった」
でもな、と続けようと顔を上げたとき、がしっと手首を取られた。
「本当ですか?」
横山が急に明るい声を上げる。
「……え?」
「ああ、良かった。先生なら受け入れてくれるって思ってました」
わけのわからないことを言いながら、横山は俺の手を引っ張り椅子から立たせると、思い切り抱きついてきた。
「うわ、ちょ、離して」
身を捩っても強い力で抱きしめられて引き離せない。しかもどんどんカーテンで仕切られたベッドの方に引きずられていく。
高校生といっても三年にもなれば大人と変わらない体格だ。俺よりも一回り以上大きな横山に力ではかなわず、俺は焦った。
「横山、落ち着いてくれ、それはまずいってほんとに。しゃれにならないから」
ぼすんとベッドに背中から倒され、上に横山がのしかかってくる。
「先生……」
横山の呼吸が荒い。横川が顔を近づいてくるのを、とっさに顔を横に向けて避けた。生暖かい唇がちゅっと音をたて頬に触れ、ぞっとする。
「なんで避けるんですか」
「い、やだって、言って、んだろ。辞め」
「どうしてですか。先生だって僕のこと好きなんでしょう」
「好きじゃない、好きじゃ……、……っ、……」
声も音もなく揉み合う。
強い力で顎を掴まれ、顔を正面に戻される。また横川の顔が近づいてくる。
コンコン、と扉を叩く音が聞えたのはそのときだった。
「失礼しまーす」という声とともに扉が開く音がする。ぎくりと横山が動きを止めた。
「あれ、先生?」
聞こえてきたのは一之宮の声だった。ぼそぼそと「おかしいな、電気ついてんのに……」と呟く声が聞こえる。
「たすけ……っ」
息を吸い込んで叫ぼうとした瞬間、ぐっと口元を手のひらで押さえられた。
必死に暴れるが、両手首を抑え込まれ腰骨の上に乗られるとほとんど身動きができない。
お願いだ、一之宮、気づいてくれ……!
願いが通じたように、足音がこちらに近づいてくる。シャッとカーテンが開く。横山の肩越しに、驚いた一之宮の顔が見えた。
「お前何やってんだ!」
一之宮の怒号が響き、気が付いたときには、俺の上にのしかかっていたはずの横山は床に転がっていた。
一之宮は俺を庇うようにベッドの前に立ち、痛みに呻く横山を見下ろす。
「なあ、何してるって聞いてんだけど」
一之宮の怒りに満ちた声に、部屋の中がしんと静まり返った。
横山は呻くだけで答えない。一之宮は苛立ったように舌打ちして横山に近づくと、側にあったパイプ椅子を蹴った。
ガンと大きな音を立てて椅子が吹っ飛び、横山が小さく悲鳴を上げる。
「殺すよ」
一之宮のその言葉に、静かだった空気がもう一段階静まった。まるで凍り付くような声音だった。
「い、一之宮……?」
俺はゆっくりと起き上がり、一之宮の背中を見た。大きな背中はいつもと変わらない。それなのにぞっとするような気配が滲んでいる。
「殺す」
もう一度静かに一之宮は言った。
「殺す……殺す……ころす」
まるで壊れたスピーカーみたいに不鮮明な声で繰り返す。
ひくっと横山の顔が引きつったのが見えた。真っ青を通り越して白い顔になった横山は慌てて立ち上がり、逃げるように出て行く。バタバタと横山の足音が遠ざかっていった。
凍り付いたような空気がゆっくりと溶けていく。それでも一之宮は黙ったままだった。
いきなり生徒に告白され、それどころが押さえつけられて無理やりキスされそうになった。気持ち悪かったし、今更身体が震えてくるようなショックでもあった。
だけどそれ以上に、様子が明らかにおかしい一之宮が気にかかる。俺はベッドを下り、一之宮に近づいた。
「一之宮、悪かったな。助かったよ」
声を掛けたが一之宮は動かない。返事もしない。どうしたのだろうと顔を覗き込み、俺は息を呑んだ。
一之宮の顔からは表情というものが抜け落ちていた。ただ目を見開き何かを見つめているが、その瞳には何も映っていない。まるで心を引き抜かれたようだった。不安がこみ上げてきて、俺は一之宮の肩を揺さぶった。
「一之宮、一之宮っ……」
はっとしたように一之宮が目を瞬く。瞬きをするたびに空虚だったものが少しずつ戻ってくるのが分かった。
泣きそうに歪んだ目で俺を見おろす。
「先生」
一之宮の腕が伸びてきて、俺を恐る恐る抱きしめた。
肩のあたりで感じる彼の心臓が信じられないほどに早い。身体も小さく震えている。
俺はいつものように、一之宮を突き放すことが出来なかった。
「先生……」
「うん」
「大丈夫ですか」
「うん」
「痛かった?」
「……え?」
「殴られた? 蹴られた?」
子供のような声で一之宮が聞く。俺は驚き彼の顔を見ようとしたが、抱きしめる力が強くて身じろぎしかできない。仕方がないので「ううん」と首を振った。
「大丈夫だよ。ちょっと引っ張られて掴まれただけ」
「本当?」
「うん、本当だ。お前が助けてくれたから」
「良かった……」
一之宮が安心したように息を付いたが、俺の心臓はどくどくと嫌な音を立てて早くなるばかりだった。
微妙に噛み合わない会話。一之宮らしくない子供のような幼い話し方。
そして優しい彼に似合わない、『殺す』という言葉。
この違和感はなんだろう。絶対に取りこぼしてはいけないものが、今まさに自分の手のひらをすり抜けていってしまっているようで焦りが募る。
一之宮がぽつりとつぶやいた。
「どこにも行かないで……」
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