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一之宮の言うとおり、アパートはもぬけの殻だった。
テレビやテーブル、冷蔵庫など、価値があると思われたものは根こそぎ消えていた。きっとあの父親が持って行ったか売り払ったかしたのだろう。
「今日の朝、珍しく機嫌がいいと思ったんですよね。袋にいっぱいのカップ麺を買ってきて、好きなの食べていいぞって言ったんです」
玄関のたたきに立って寒々しい部屋を眺めながら、一之宮が呟いた。
「なんか変だな、もしかしたらどっかに新しい借金でも作ってきたのかなって思ってたんですけど、まさか……」
何も言葉が出なかった。静寂のなかで、雨粒が屋根を打つ音だけが響く。
「俺、これからどうしたらいいんだろう」
一之宮がゆっくりと顔を上げる。瞳がゆらゆらと揺れる。その中に現れた怯えと孤独を見た瞬間、ふいに幼いころの自分を思い出した。
あれは、確か小学校の低学年のときだった。
学校から帰ってきても、玄関のドアが開かなかったことがあった。
何度も呼び鈴を押して、玄関扉に耳を押し当てた。でも家の中は静まり返り、なんの音もしない。玄関の前に膝まづき、扉に付いたポストの口を部屋の中を覗き込んだ。母親がいつも履いている白いハイヒールが見えた。
ということは、家の中には母親がいるはずだ。
俺は呼び鈴を何度も押した。扉を叩き、ポストに顔を突っ込むようにして叫んだ。それでも母親が気づく様子はない。そうしているうちに空が暗くなり、そのうえ雨も降り出した。
どうしてお母さんはドアを開けてくれないのだろう。もしかして僕、何か悪いことしちゃったのかなあ。だからお母さんは怒って開けてくれないのかなあ。
自分に降り注ぐ雨をぼうっと眺めながら、そんなことをずっと考えていた。涙が滲みだすたびに手のひらで拭い、必死で自分を励ます。
もしかしたらお母さんは寝てるのかもしれない。今に起きて、このドアを開けてくれる。『こんなに濡れて寒いでしょう。ごめんね』ってぎゅっと抱きしめてくれる。
でもいくら待ってみてもドアは開かなかった。ようやく雨が上がったのは明け方で、ドアが開いたのは日がだいぶ高くなってからだった。
『あら、あんたが帰ってきたの、ちっとも気が付かなかった』
母親は二日酔いで痛む頭を押さえて、不機嫌そうにそう言っただけだった。
高熱を出した俺をひとりアパートに残し、母親はいそいそと男のもとへと出かけていった。茶の間のテーブルには、母親が一晩で飲みつくしたウイスキーの空瓶が転がっていた。そのときの絶望は、今でもべったりと自分の項や背中のあたりに張り付いている。
どんなに楽しいときを過ごしていても決して忘れることはない、一生無くならない絶望だ。
そんなものがいま、一之宮の中に深く深く根を張っていくのが見えるようだった。
「一之宮」
たまらず俺はひとまわりも大きな一之宮の背中に手を当てた。雨に濡れて冷え切った体は細かく震えている。
「一之宮、行こう」
「――どこに?」
戸惑うように一之宮が顔をあげた。俺はその顔を覗き込んで安心させるように微笑む。
「うちにおいで」
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