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 結局無くなった十円玉は見つからなかった。あれから十五分探したのにも関わらずだ。なんとも切ない。  しかも肩を落として帰った保健室では大勢の生徒がご来室。おかげで昼食も取りそびれてもう午後の三時だ。やっと空いた時間で手製の弁当をかっ込み、誰も見ていないのをいいことに保健室の愛用の回転チェアの上でだらしなく仰け反りながら、コーンポタージュの缶を煽る。  缶の中に一つだけ残ったコーン粒をなんとか取り出そうと箸を突っ込んでいると、昼休みの出来事がふと蘇ってきた。 『たった十円だけならいいじゃないですか』  十円玉を探そうと這いつくばっているところに、あの男子生徒から掛けられた言葉だ。あのときはかなり頭にきたが、それは普通の人のもっともな反応なのかもしれない。  多くの人にとって十円ははした金だ。家の中の小銭をかき集めても十円足りず、目の前のパンを買えなかった経験をもつ人など、今のご時世いないだろう。黙っていても親から小遣いをもらえる学生であれば、そんな状況は想像もつかないに違いない。  ふうとため息をついたとき、保健室の扉のノックの音が聞こえた。  慌てて姿勢を正し、愛想よく「はーい」と返事をする。しかし開いた扉をから入って来る人物の顔を見て、えっと目を見開いた。  真っ黒な髪の毛のギリシャ彫刻。  それは昼休みに俺の硬貨を拾ってくれた件の男子生徒だった。さきほどの制服姿とは違って今は体操着姿だったが、このガタイの良さと端正な顔を見間違えるわけはない。  彼の方もさきほど自販機の前で会ったことに気が付いたようで、俺の顔を見て驚いたような顔をした。 「……保健室の先生だったんですね。卒業生の人かなんかだと」 「あー。あはは、だよね。さっきは白衣着てなかったし」  加えてこの髪色だしなあ……と俺は自分の髪の毛に手をやった。  俺は隔世遺伝とやらで、普通の人よりは髪の色素が薄く茶色いのだ。しかも床屋代の節約をしているうちに髪は肩まで伸びてしまって、仕方ないので適当に後ろで一つに束ねているが正直あまり印象は良くないだろう。  そのうえ、どれだけ日に当たっても日焼けしないなまっちろい肌と猫のように切れ上がった大きい目と相まって、自分に『先生』の貫禄は皆無なことはちゃんと知っている。最初の頃など、白衣を脱いでいて生徒と間違われたくらいなのだ。 「まあ俺のことはいいから入っておいでよ。今日はどうしたの?」 「体育の授業で転んでしまって」  言葉の通り、彼の左腕の肘には大きな擦り傷があった。 「うわあ、派手にやっちゃったね。痛いでしょう。君、クラスと名前は?」  急いで椅子から立ち上がり、保管棚から消毒薬やガーゼや絆創膏などを取り出す。彼は落ち着いた様子で丸椅子に腰かけ、答えた。 「二年四組、一之宮颯真です。『そう』は立つに風、『ま』は真実の真」 「一之宮、颯真ね」  俺はテーブルの上に置いてあった来室記録のファイルに記入し、彼と向かい合った。 「それじゃ一之宮くん。ちょっと診せてね」   彼は黙って頷くと左腕を差し出した。  肘の擦り傷はすでに血が止まりかけていた。水道で洗ってからに保健室に来たのか、砂などの付着物もない。消毒をして大きめの絆創膏を張り付ければ処置は終わりだ。  しかしふと背中の方を見ると、白い半そでの体操着に血が滲んでいるのが見えた。 「もしかして、背中も怪我してるんじゃないの?」 「いえ」 「でも血が出てるみたいだけど」 「大丈夫です」 「いいから見せて」  俺が頑なに言い張ると、彼は仕方なさそうに小さく息を吐いた。背中を向けて椅子に座りなおす。 「ちょっと服まくるね」  彼が小さく頷いたのを確認してから、体操服をたくし上げる。そして次の瞬間、俺は静かに息を呑んだ。  背中のには転倒したときについただろう擦り傷と、もう一種類の傷跡があったのだ。  背中の左側に点々と散る丸い小さなやけどの痕。鉛筆の直径ほどの大きさの痕に、俺は見覚えがあった。これは……煙草を押し付けた跡だ。  学時代つるんでいた奴らが、『根性焼き』と称して、火のついた煙草を自らの腕に押し付けているのを見たことがあった。どうやら我慢強さを誇示する儀式らしいが、馬鹿らしいので俺自身はやることはなかった。だがその痕は何年も何年も、しつこく肌に残ることは知っている。  目の前の一之宮のやけどの痕もまた、何年も経ったもののように見えた。ということは中学生か、それとも小学生のときに負った傷だろうか。   黙り込んでいると、すぐ近くから乾いた声がした。 「昔の傷です。もう今は大丈夫なので」  はっと顔を上げると、すぐ目の前に彫刻のような端正な顔があった。 「でも一之宮くん、これは――」 「放っておいてください」  彼は俺の手を外すと、椅子から立ち上がった。そしてこちらに向かって小さく頭を下げる。 「手当ありがとうございました。失礼します」 「あ、待って……!」  彼は振り返ることも返事をすることもなく、背中を向けて保健室を出て行った。
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