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 古びたドアノブにカギをさし、扉をゆっくりと開ける。足音を忍ばせながらそっと部屋に上がると、茶の間のこたつの横にこんもりと盛り上がった布団が見えた。  俺は息を吸い込み、布団の端を掴む。 「こらあ! おきろ一之宮!」  大声で叫びながら布団をがばっとはぎ取った。 「ちょ、先生、寒い……」 「わざと寒くしてるんだよ! 早く起きろ!」  ミノムシのように丸まる一之宮を笑いながら、俺は部屋のカーテンを全開にした。  窓の外には嫌味なくらいに晴れ上がった青空が見える。  一之宮の父親が出て行ってから一か月。  予想通り近くの児童養護施設に空きはなく、一之宮本人も転校することを固く嫌がったのもあって、俺の当初の提案通りに生活保護を申請することになった。しかし役所の動きは遅い。  担当者に嫌な顔をされるくらい、俺はしつこく役所に通った。校長や佐々木先生とも一緒に嘆願に行った。だが返ってくる言葉はいつも一緒だ。 「前例がないので……」  たったそれだけの理由で、一之宮は大きな不安の中に置かれたままだ。臍をかむような思いだけが募っていく。  だが悪いことばかりではなかった。  父親に家の中の家電を根こそぎ持っていかれた一之宮だったが、彼のクラスメイトの発案で学校中にカンパを募り、集まったお金で中古の電子レンジや冷蔵庫を揃えることが出来た。  それまでは一之宮はクラスの中でも少々浮いた存在だったようが、担任の佐々木先生が一之宮に対し真摯な姿勢に変わったのがきっかけで、クラスメイトともだいぶ打ち解けてきているようだった。この様子ならすぐに親しい友人も出来るだろう。  大丈夫だ、これから少しずついい方向へ向かって行く。俺は自分にそう言い聞かせ、腹に力をこめて明るい声を出した。 「ほら、今日もいい天気だぞ! さっさと起きて朝ごはん食べる! 遅刻するぞ!」  起き上がって布団の上でぼんやりしている一之宮をせかし、俺はこたつの上に鞄から取り出したパックを置いた。 「今日の朝ごはんは卵焼きと、ウインナーとおにぎりだぞ」  呟くと、布団の上の一之宮がぱっと目を開けた。 「卵焼き……」  のそのそと四つん這いでやってきてそのまま弁当の蓋を開けようとするので、一之宮の手から弁当箱を奪い取った。 「顔洗ってきてから! ……卵焼き、ちゃんと甘いやつだから」 「はい」  一之宮は苦笑して立ち上がり、洗面所へとのしのし歩いていく。しばらくすると水音が聞こえてきた。  俺は弁当を電子レンジの中に入れながら、小さくため息をついた。  一之宮は決して寝起きが悪いわけでも朝が弱いわけではない。それなのに布団を引きはがすまで起きられないのは、きっと昨日の夜眠れなかったからだろう。  土屋との心理カウンセリングも週に二回続けているが、その効果は芳しくない。面談をしても、一之宮はほとんど何も話さないらしいのだ。  でもそれもしかたないことだと思う。人に何かを話すにはエネルギーが必要だ。今の一之宮にはそれがないのだろう。唯一の肉親の父親が自分を置いて失踪してしまったのだから、そうなるのも当然だ。  思考は、ふいに腹にするっと回ってきた太い腕に遮られた。  背中にぴたりと温もりが張り付く。 「ちょ、と……一之宮」  背後から近づいた気配もなく近づいてきた一之宮に後ろから抱き込まれ、俺は慌てて身を捩った。 「お願いします、ちょっとだけ」  耳元で一之宮に懇願され、俺は仕方なく身体の力を抜いた。  『仕方なく』なんて言い訳をしたものの身体は正直で、彼の腕が触れるところからだんだん甘い熱が広がっていく。いまや心臓は駆けていくようだ。  それは一之宮も同じだった。背中で感じる鼓動は俺と同じか、それよりも速い。合わさったところから熱で溶けそうだ。  ぼうっとしていると、ふいにあごを掴まれた。ぐっと後ろを振り返るように顔を引かれ、そのままそこに一之宮の顔が近づいてくる。 「――ストップ。駄目だ」  慌てて一之宮の顔を手のひらで押し返した。少しだけ一之宮は傷ついたような目をしたが、すぐに苦笑いをする。 「すみません、調子に乗りました」  腕がほどかれ、俺はすばやく身を離した。もう一瞬遅ければ、雰囲気に呑まれてキスをしてしまうところだった。どきどきと跳ねる心臓を落ち着けようと、俺は必死に呼吸に意識を集中させる。  抱擁はいいけど、キスはしない。  それが今の一之宮の状態を考えたときに許容できるぎりぎりのラインだった。本当だったら抱き合うのだってアウトだ。だけど一度許してしまったものを、今更拒絶することは難しい。  ――こうやってするずるなし崩しになるんじゃねえのかな。  そう不安に思わないこともない。だけどこれが今の現実と折り合う一番良い方法だと自分で自分に言い聞かせるしかなかった。  ピーッと電子音が鳴り、電子レンジ加熱が終わった弁当箱を取り出す。冷蔵庫から麦茶を取り出し、グラスに注ぐ。 「ほら、食べろ」  朝ごはんの入った弁当箱と麦茶をこたつに置いてやると、一之宮は素直に腰を下ろす。俺がその正面に座ると、一之宮は俺を見て微笑んだ。 「なんか新婚さんみたいですね」 「またお前はそんなことを……。なんでもいいから早く食べろ。遅刻すんぞ」  一之宮は「はい」と返事して手を合わせ箸を取った。まず初めに卵焼きを口に入れる。 「ん、やっぱりうまい」 「おおげさだな」  俺が苦笑すると、一之宮は嬉しそうに目を細めた。 「だって先生が俺のために作ってくれたんですよ。うまいに決まってるじゃないですか」  一之宮はこう言うが、俺は決して料理が上手なわけではない。朝食をとらない一之宮を見かねて、朝一番にこうして弁当を届けてはいるが、中身はただ単に焼いただけ炒めただけの男の料理だ。それでも一之宮は「うまいうまい」と言っては喜んで食べてくれるので、喜ばされているのはこっちの方のような気がしてくる。 「一之宮も自分で料理出来るようにならないとな」  何気なく言った一言だったが、一之宮はぎくりとしたように箸を止めた。哀しそうに目を伏せる。 「……なんでそんな突き放すようなことを言うんですか。俺のこと、嫌いですか」  え、と言葉に詰まってしまった。「そんなことないけど」と言うと、一之宮は顔を上げ、すがるように俺を見つめてくる。 「じゃあ、今日の夜も先生のところに行っていいですか?」 「――うん。あとで連絡するから」  俺が頷くと、一之宮はようやく安心したように微笑んだ。  学校へ行く用意をする一之宮に遅刻すんなよと声を掛け、部屋を出た。扉を閉めた途端、ほうと息が漏れてしまう。  ――今日も来るのか……。  ここのところ三日に一回は、一之宮は俺の部屋に泊まりにくる。  学校や周囲にばれたらまずいので、本当だったら夜は帰したいのだが、『帰りたくない』と言われるとそれも出来なくなってしまう。誰もいない部屋に帰る寂しさは俺もよくわかる。肩を落とす一之宮が可哀そうになり、結局は俺の部屋に泊めてしまうというのがいつものパターンだった。  とはいっても、俺たちの間に何があるわけではない。  同じベッドには入るが、一之宮は横になった途端に意識を失うように眠ってしまい、朝まで起きないのだ。  正直に言えば、好きな相手が無防備に眠っているのを一晩中眺めているのは苦しい。生殺し状態だ。  だけど彼が自分のそばでだけ心と身体を休めてくれるのは、やはり嬉しいと思ってしまう。    腕時計を見ると、そろそろ出勤しなくてはいけない時間になっていた。慌ててアパートの階段を降りる。  いったん自分のアパートに戻ろうと、近くの公園を通り抜けようとしたときだった。突然、木の陰から人影がふらりと出てきた。 「うわっ」  声をあげてのけぞった俺だったが、目の前の人物はよく見覚えのある制服を着ていることに気が付いた。 「横山……?」   目の前に立っていたのは三年の横山だった。保健室での出来事が蘇り、身体が強張る。  あの一件以降、横山は保健室にやって来ることはなかった。俺も横山を避けていたし、横山の方も俺を避けているように見えた。なぜこんなところにいるのだろう。  横川は顔を上げると、ぎっとこちらを睨みつけた。 「先生、毎日一之宮の家に行ってるんですか」 「え?」 「どうして僕と付き合ってるのに、あいつの家に行ってるんですか」 「……付き合ってる?」  予想もしない言葉に思考が止まった。 「そうでしょう? 俺たち恋人同士ですよね? それなのにどうして先生は他の男のところに毎日行ってるんですか! 朝と夜一日二回もだ! アイツがあなたの部屋に泊まることもある! 中で何してるんですか!」  横山の目が怒りでぎらりと光る。背筋に戦慄が走った。  どうして俺と横山が付き合っていることになっているのだろう。そして、毎日一之宮のところに行っているのをなぜ横山が知っているのだ?  横山が一歩近づいてくる。俺は自然と後ろに下がりながら首を振った。 「ちょ、ちょっと待ってくれ横山。俺たちは付き合ってないだろう? それに俺と一之宮は別に何にも……」 「嘘だ! 先生も僕のこと好きだって言ってくれたじゃないですか!」  激昂していた横山は、突然はっとした顔をした。 「ーーそうか。先生は一之宮の方が良くなったんですね? どうしてですか! 確かにアイツは顔はいいかもしれないけど、総合的に考えたらどう見ても僕の方がいいじゃないですか。僕の方が成績だっていいし良い大学に行きます。金にだって不自由させませんよ。それに比べて一之宮なんて、最下層じゃないか!」    『最下層』  その言葉を聞いた瞬間恐怖がすっと遠ざかり、頭に一気に血が上った。  気が付くと俺は、横山の頬を平手で張っていた。ぱんという小気味良い音が響き、手のひらに痛みが走る。  横山が叩かれた左頬を手で押さえて、驚愕の表情で俺を見た。その顔がどんどん青ざめていく。  やばい、やっちまった。冷静な頭の一部分ではそう思っているのに、胸の中からは真っ黒な感情が噴き上げてくる。 「ふ……ざけるな。横山が恵まれてんのも、一之宮が恵まれてねえのも、なにも変わりはないんだよ。生まれた家がちょっと違かっただけだ。確かに一之宮は親もいないし経済的にも困ってる。だけどそれは一之宮の責任じゃないだろ」  横山はショックを受けたように目を見開き固まっている。それでも言葉を止められなかった。 「勉強ができるからってなんだ? いい大学に入ったからってなんだ? そりゃ親が金持ちで良い大学に出て良い会社入れれば、それはそれでいいだろうがよ。だけど、恵まれたやつが恵まれてないやつを馬鹿にして見下す権利なんてあんのか? どんなに底辺で最下層に見える人間だって、お前と何も変わりはしねえ、同じ人間だ。どうしてそれがわからない?」  ぽかんとしていた横山の顔が、ゆっくりと怒りで歪んでいくのがわかった。 「やっぱり先生は僕じゃなくて一之宮がよくなったんですね」 「そうじゃない! そうじゃなくて……」  一之宮の悲しみも俺の悔しさも、傷を持たず完璧な横山には伝わらないのかもしれない。そう思ったら一気に虚しくなった。これ以上言葉が出ない。   「……残念です。せっかく先生をそこから助けてあげようと思ったのに」 「助ける?」  横山は俺の質問には答えなかった。ぎろりと目を向け、親の仇のように睨みつける。 「やっぱり底辺には底辺の人間がお似合いだ」  横山は捨て台詞を吐くと、さっと身を翻し公園から去って行った。
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