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4
「うわ……」
土屋との打ち合わせを終えカウンセリング室から保健室に帰ってくると、机の上に小さな金色のパッケージが置いてあった。一目でわかる。コンドームのパウチだ。
俺の後から入ってきた土屋が指で摘まみ上げ、「何だよこれ」と呆然と呟いた。
「見たまんまゴムだろ。親切なことで」
俺がははっと笑ったとき、保健室の外から小さな笑い声が聞こえてきた。扉のすりガラスの向こうで複数人の影が揺れている。「どう?」「見つけた?」なんてひそひそ声が聞こえてくるのをみると、間違いなくこれを机の上に置いていった犯人たちだろう。
「ふざけんな!」
土屋がすごい勢いで廊下に出て行った。
「ごらあっ!」
と、漫画みたいな巻き舌の土屋の怒鳴り声と廊下を走っていく足音が聞えて来る。俺ははあ、と大きなため息をついた。
例のSNSに、俺がゲイで淫乱で施設出の元ヤンという投稿があってから十日、この手の嫌がらせをされるのは三回目だ。
馬鹿らしくて失笑ものだが、俺はだんだん自分が笑えなくなってきていることに気づいていた。
ひとつひとつは大きくなくとも、積み重なった悪意は闘う気力をゆっくりと奪っていく。今の俺には犯人の生徒たちを追いかける気力も、怒鳴りつける気力も残されていない。脱力したようにどかっと椅子に座って天井を見上げる。
いつもなら休み時間にはひっきりなしに生徒が出入りしていたというのに、ここ数日は保健室は水を打ったように静かだった。あの書き込みが原因で、保健室にくる生徒が減ったのだ。
例のSNSの投稿はすぐに消去されたが、あの画面のスクリーンショットを他の学校関係のSNSにアップした馬鹿がいたらしい。その投稿は生徒間で拡散され、噂がかなり広がっているようなのだ。そしてその結果がこれだ。俺は忌々しいコンドームのパウチをゴミ箱に投げ捨てた。
それに噂に影響されているのは生徒ばかりではなかった。教員も同じだ。
俺が用事があって職員室に入ると、教員たちのあいだに緊張が走る。無視されるようなことはさすがにないが、態度も以前と違う。視線が正面から合わなかったり、妙によそよそしかったりする。
悲しいがそれもしょうがないとも思う。教員になるような人たちはごくまっとうに生きて、真っ直ぐな道を進んできたに違いない。自分とは明らかに違う人間を受け入れることは難しいのだろう。
しばらくすると土屋が険しい顔で戻って来た。手には小さな紙切れを持っている。
「さっきの奴らの名前書かせてきた。後は煮るなり焼くなりしろよ」
ほら、と鼻息荒く紙を手渡されたが、見る気にはなれなかった。「悪かったな」と土屋に謝り、紙は折りたたんでポケットにしまう。それを土屋はじっと見ていた。
「もしかして他にもいろいろされてんの、嫌がらせ」
「ん~……。まあ何回か? 別に大したことはされてねえよ」
俺がソファに座ると、土屋も無言でどかっと俺の隣に腰を下ろした。苛立ったように「あ~」と唸りながらバリバリ頭を掻く。
「お前さあ、どうするつもりでいるんだよ」
「ん?」
さっきの嫌がらせをした生徒の処分のことかと思ったが、違ったらしい。
「一之宮のことだよ。昨日のカウンセリングで会ったけど、全然千草先生に会えないってかなり思い詰めてたぞ」
「……ああ」
あの書き込みがされた後から、一之宮とはほとんど顔を合わせていない。
彼には書き込みのことを説明し、保健室に来るのも俺の部屋に来るのもしばらく控えたほうがいいと伝えたが、納得していないようだった。
『どうして駄目なんですか?』と俺を問い詰めるメッセージも何度も来た。『今日は先生の家に行きたい』とねだる電話も毎日のように来る。でもそのすべてを俺は『いまはだめだ』と断っていた。
俺が一之宮の家庭の件に肩入れしているのは、学校の関係者ならみんな知っていることだ。あの投稿で『お気に入りの生徒にも手をだしている』と書かれているのを見て、一之宮を連想したひとも多いだろう。だからこそ今は距離を置かなくてはならない。もし生活保護の申請に影響が出たら、取り返しがつかないのだ。
「一之宮に電話はしてるよ。でも今会うのはまずいだろ」
「……まあなぁ」
土屋は腕組みをして窓の外に視線をやった。その様子は、俺よりももっと疲弊しているように見えた。
一時期は仲の悪いように見えた土屋と一之宮だし、今だって打ち解けたとは言い難いが、土屋も一之宮のことを心配しているのだ。彼のために何かをしたいと思っているのは、俺だけじゃない。
俺は努めて明るい声を出し、土屋の背中をバンバン叩いた。
「噂も七十五日っていうし、すぐに落ち着くだろ。一之宮だってわかってくれるよ。だからそれまで頼むぜ、土屋」
土屋は肩をすくめる。
「俺じゃ一之宮は不服そうだけどな。今は我慢してもらうしかないな」
土屋は「またアパートの方にも様子見に行ってくるわ」と請け合い、保健室から帰っていった。
俺は笑顔で見送っていたが、一人になった途端にまた気分が底まで沈む。ゴミ箱のコンドームが目に入ってしまったらなおさらだった。知らず知らずにため息が出る。
土屋の前では明るく振舞ってはいるが、ひとりになると気が塞いで仕方なかった。
それでもいつまでも辛気臭くはしていられない。俺はよしっと反動をつけてようやく椅子から立ち上がった。
保健室を出て、にぎやかな昼休みの廊下を歩く。
校内を歩いていても、以前のように生徒から呼ばれることもなくなった。多くの生徒は遠巻きに俺を見ているだけだ。視線の中には侮蔑や嘲笑が混じっているように感じるのも気のせいではないだろう。
ふと顔をあげると、廊下の向こうから横山が歩いてくるのが見えた。遠目でわかるほどに顔色が悪い。足元もおぼつかないようにふらふらとしている。
俯いていた横山が顔を上げ、視線が俺を捉えた。
瞬間、横山の顔色がさらに悪くなった。慌てて踵を返し逃げていく。
昼休みで込み合う売店の向こうに横山の背中が消えていくのを眺めながら、やっぱりそうだろうなあと俺はためいきをついた。
さきほど土屋とも話をしていたのだが、あのSNSの投稿は横山がしたものではないかと俺たちは疑っていた。彼との諍いがあった数時間後に書き込みがされたことからみても、間違いないと思う。だが確固たる証拠もなかった。
もしかしたら横山は、むしゃくしゃしてついあんな言葉を投稿してしまったのかもしれない。憤りをぶつけてすっきりしたいだけだったのに、あれほどに拡散されたのは予想外で、今頃になって自分のしでかしたことの重大さに恐れ慄いているのかもしれない。
だけど物事が予想もしなかった方向に転がっていくなんてよくあることだ。それは俺もまったく同じで、今まで築いてきたものがこんなに脆いだなんて知りたくもなかった。
体育館の脇をすり抜け、学校の敷地のほぼ隅っこまでやって来ると、いつもの自販機が木立に埋もれるようにして立っているのが見えた。ほっと肩から力が抜ける。
……そういえば初めてここで一之宮と会ったんだったな。自販機に百円玉を入れながら、俺は思い出した。
あのときは俺が小銭をばらまいてしまって、一之宮が拾ってくれたのだ。
会いたいな、と思った。
食事はちゃんとしているだろうか、夜は眠れているだろうか。考え始めるときりがない。
だから「先生」と声が聞こえたとき、俺は空耳だと思った。
「先生」
もう一度俺を呼ぶ声がした。俺は驚きに振り返った。
「一之宮……」
久しぶりに見る彼の姿だった。どくん、と心臓が震える。一之宮は近づいてくるなりいきなり俺を抱きしめた。
「先生、会いたかった」
一之宮が耳元で囁く。久しぶりの彼の声と匂い。分厚い胸板から伝わる鼓動は速く、太くたくましい二の腕に包まれると否応なしにうっとりとしかけたが、俺は慌てて彼の腕から逃れた。
「何考えてんだ! ここは学校だぞ?」
周りを見回したが、他に人の姿はないようだ。良かったとほっと息を付く。
「こんなところに誰もいませんよ」
「わかんないだろ! 人に見られたらどうすんだ! もうちょっと考えろ!」
「誰に見られてもいいじゃないですか」
「は?」
俺はその言葉に驚いて、一之宮の顔をまじまじと見た。そして同時にはっとする。彼の瞳は、何日も満足に眠っていないかのように赤かった。目の下も黒ずんでいるし、心なしか頬がこけたような気がする。
憔悴したような彼の様子に怯みながらも、俺は一之宮を睨みつけた。
「い、いいわけねえだろ。噂になったらどうすんだよ」
「別にいいですよ。学校なんか辞めてやる」
「……なに言って……」
本気で言っているのだろうか。でも一之宮の顔は冗談を言っているようには到底見えなかった。言いようのない不安がこみ上げてくる。
「学校辞めてどうするんだよ。高卒と中卒じゃ全然扱われ方が違うんだぞ。就ける仕事も違う。人生のあとあとにまで影響してくるんだ。お前の大事な将来のことなんだぞ?」
「そんなものどうでもいい!」
一之宮は叫ぶと、俺の身体を抱き込んだ。彼の身体を押し返そうとしたが、背骨が軋むほどの強い力で抱きしめられ息が詰まる。「離せ……」ともがく俺を握りつぶすような荒らしさで彼は叫び続ける。
「学校も未来もどうでもいい! そんなものなくたって生きていける! だけど先生がいないと俺は生きてけないんだよ」
「だめだ、離せ……。頼むから……」
生きていけないなんて言わないで欲しい。そんなことを言われたら今立っている地面がぐらついてしまう。すべて投げ出したくなる。
お願いだから、それ以上――。
「先生! 俺を見ろ!!」
「……っ」
必死な叫びに、びくんと身体が跳ねた。泣きそうな一之宮が顔を覗き込んでくる。
視線が絡まってしまったらもうだめだった。強力な磁石で引き付けられたみたいに目が離せない。
「先生が好きです」
一之宮が目を細め小さく呟く。俺は震えながら首を振った。
「お、俺は、好きじゃない……」
「嘘だ」
「違う……俺は……」
「先生も俺のこと好きでしょう。お願いだから言って」
懇願する一之宮の目はどこまでも必死でひたむきだ。
一之宮は腕はもう緩んでいる。振りほどこうと思えば簡単に出来た。でも俺の身体は、彼の視線一つに支配され動かなかった。
ゆっくりと一之宮の顔が近づいてくる。
「先生」
愛おしむように言われ、最後の拒絶がどこへ消えていってしまう。気が付くと俺は目を瞑っていた。
一之宮の唇が俺の唇にそっと触れる。温かい感触を残し離れ、そしてまた触れる。
心と言わず、身体とも言わず、自分の存在という器がゆっくり満たされていくのがわかった。
「言ってください、俺のこと好きだって」
俺は閉じていた目をゆっくりと開けた。真剣な視線が俺を捉える。
「俺も」とも「違う」とも言えず、ただ唇だけが震える。心と頭が俺を正反対の方向へ引っ張っていって、言葉にならない。
この言葉を言っていいのだろうか。彼の手をとっていいのだろうか。
夢のような時間が過ぎてしまえば、後には何も残らないのに。残らないどころじゃない。きっと待っているのは地獄だ。
それなのに、目の前の一之宮の瞳はただ優しいだけだった。俺が陥落するのをいまかいまかを待ちわびている。
俺も……好きだ。と言葉が勝手に唇から零れそうになる。
「お願いだから、どこにも行かないで」
そのとき、一之宮が小さく呟いた。
『どこにも行かないで』
――――はっとした。
ぽつりとひとつの点が浮かび上がるのように、突然保健室での出来事が蘇ってきた。俺が横山にベッドに押さえつけられ、一之宮が助けてくれたときのことだ。
『どこにも行かないで』
あのときめ一之宮は同じように俺に言った。
ずっと意識の端に引っかかっていたその言葉が今、いろんな物事を呼び寄せ、一本の線で繋いでいく。そうして出来上がっていく恐ろしい疑問を、俺は呆然と眺めた。
一之宮が俺に向ける感情は、本当に恋愛感情なのか?
俺に依存してるだけじゃないのか?
そう気が付いた瞬間、俺は一之宮を力いっぱい突き飛ばしていた。
「先生……?」
突然の俺の拒絶の行動に、一之宮が目を見開き、それから傷ついたように顔を歪める。
「ごめん」
俺は呟くと、背を向けて逃げ出した。これ以上ここにいたら、あらぬことを言ってしまいそうだった。
保健室に駆け込んで、室内側から鍵をかけた。数歩歩いたところで膝が崩れ、もう立てなくなった。身体ががたがた震える。
……ああ、嘘だろ。
俺は両手で顔を覆い、床に座り込んだ。
こんなこと気づきたくはなかった。
一之宮の俺に対する感情は、恋じゃない。ただの依存だ。執着だ。幼い頃に出て行ってしまった母親に俺を重ねて、言えなかった言葉を俺に言っているだけだ。
愛というものを知らない若い一之宮が、依存を恋だと勘違いしてしまったとしても不思議じゃない。
でも、と頭のどこかから冷たい自分の声が聞こえてきた。
(そういうお前も、人のことをとやかく言えるのか? お前が今彼に対して抱いているその気持ちも、本当に恋なのか? 同情や依存じゃないと胸を張ってはっきり言えるか?)
わからない。
自分の気持ちもまた、本当に恋や愛と呼んでいいのか俺には自信がなかった。
自分の心にぽっかり空いた穴を埋めるために、一之宮という存在を利用したのだろうか。恋なんていう見栄えのいい言葉を当てはめて、自分の空虚を満たそうとしたのだろうか。
そっと自分の唇に触れてみる。
彼の体温を、匂いを、瞳のひたむきさを、笑顔を、優しい手のひらを目を閉じて思い出してみる。
心が温かい。同時に胸が引きちぎれそうになるほどに切ない。でもこれは本当に愛なのだろうか。
わからなかった。
一之宮と同じように、俺も、愛なんてものを知らないのだから。
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